その118(2021・8・21)
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シモーヌ・ヴェイユ(仏哲学者)の言葉から考えること
(「2021年8月21日日記」から転載)
8月20日の朝日新聞に長谷部恭男(早稲田大教授)&杉田敦(法政大教授)&加藤陽子(東京大教授)の3者対談が載っていた。(新聞見出し:「コロナ対応・五輪強行 大戦時と重なる政府」)
この中で長谷部教授が、(杉田氏の「東京オリンピックが慎重論を押し切って開催され、新型コロナウィルスの爆発的感染拡大を招いた現象を、無謀な作戦で多数の犠牲者を出した太平洋戦争末期になぞらえた」ことや、加藤氏の「菅義偉首相が楽観論に流れて判断を誤るのは(彼自身の資質にもよるが)東条英機内閣が対英米開戦を決定する際に御前会議にあげたデータが、開戦に前のめりの人物がその手下に作らせた不適切なデータだったことと同じく、都合のいいことしか聞かなくなった為政者のもとに、本当に正確なデータを上げる人物がいない、という日本の統治システムの宿痾(しゅくあ)」との発言を踏まえて)フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの著書から「人間は執着に弱い。何かに執着すると幻想が生まれ、その幻想によって「きっとうまくいくはずだ」と自分の願望を正当化しようとする」を引いて、
「オリンピックへの執着によって何が現実かを見ることができなくなるから、正しく考えることも正しく判断することもできない」と述べていた。
さて、越後がふるさとの俺にとって、毎年のお盆の墓参りは欠かせない行事の一つだった。毎夏おやじ山で過ごすようになったここ数年は、気軽にお盆の墓参りができるようになって、これが済むと「やれやれ一仕事終わったなあ」と、大いに安心した気分になる。
しかし今年の夏だけは違った。7月末にようやく2度目のワクチン接種を終え、「さておやじ山に戻るか」と準備していた矢先に、首都圏に感染爆発が発生した。そして、神奈川と新潟双方から県をまたぐ往来に厳しい自粛が求められ、ふるさとの人たちにゆめゆめ不安や迷惑はかけたくないと、いまだ自宅で籠もりっきりの生活を余儀なくされている。
そんな最中、郷里の友人から19日付の新潟日報記事が届いた。「フジロック開催 期待と不安の中 2年ぶりに開催」とある。(8月20日~22日、新潟県湯沢町苗場スキー場で開催)
先に、9月17日から3日間開催予定の「長岡米百俵フェス」に反対する意見書を長岡市長宛送っていたが、郷里の友人らは、米百俵フェスより遙かに大規模なフジロックの開催が、続く米百俵フェス開催にお墨付きを与えることになる、と言うのである。「なるほどそうか」と激しい憤りと失望を禁じ得ないのである。
まさにシモーヌ・ヴェイユの言葉や長谷部教授の指摘通り、今や災害級のコロナ禍でのフェステバル開催強行は主催者側の執着の結果である。それが幻想を生み、何が現実かが見えなくなるなかで「きっとうまくいくはずだ」と自己の願望を正当化している愚を、行政は他人事と傍観しているのではなく、しっかり正す責任と義務があるはずだ。
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