森のパンセ   山からのこだま便  その113(2021・1・16)
旅で出会った言葉(2)

「人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行なり 寸心」

 「哲学の道」(京都市左京区)に立つ哲学者西田幾多郎自筆の歌碑。(2020年12月12日立ち寄り)
 
哲学の道は、琵琶湖疎水分線に沿うように銀閣寺道から若王子まで続く桜並木の散策路で、哲学者西田幾多郞などが思索に耽りながら歩いたということから名付けられた。石碑の歌は、西田幾多郞晩年の作で、書は昭和14年の自身の筆による。因みに「寸心」は西田幾多郞の居士号。
 この歌碑の脇の銘板には『・・・人生ノ指針ヲ示シタ碩学ノ教エトシテ 哲学ノ道ヲ散策スル人々ニ愛唱シテホシイ』と刻まれている。


 長く森林調査の仕事について各地を巡り、思わぬ風景や人との出会いに感動したり驚いたりすることがあるが、昨年(2020年)12月の旅では、期せずして遭遇した事から若かりし頃の自分が鮮明に立ち上がり、単なる懐かしさや郷愁とは違う、何か深い哀情ととともに拭い切れないような愛おしさが沸いてくる不思議な感情が胸を突いてきた。
 それは近畿出張の最終日だった。和歌山、三重、滋賀県と山々を渡り歩き、最後の調査が京都洛北のポイントだった。そこでの仕事も無事終わり、Kさんの運転でレンタカーを返して帰途につく京都駅に向かった。助手席で揺られながら車のナビ画面を見ると、何と!帰りのルートに忘れもしない地名があった。「京都市左京区北白川○○○町」。そこは俺が20代のはじめに、1年だけ住んでいた場所だった。

 かすかに昔の面影がある場所で車を停めてもらい、Kさんと別れた。スマホで近くの宿を見つけて投宿の手続きと荷物を預け、早速かつてお世話になったMさんの下宿を訪ねた。何回か小路を行き来して、「多分この辺りではなかったか?」と探してみたものの定かでない。考えてみれば当然で、もう半世紀以上も前の事で、いまだ昔の下宿があろう筈などない。念のためにと小路の角に建つ酒店に入って訊ねてみた。酒店の老夫婦は、「Mさんねえ・・・名前は聞いたことがあるような・・・」と口ごもりながらも、「あの人なら知っているかも」と女将さんは店を出て、すぐ先の米屋まで俺を連れて行って尋ねてくれた。米屋の老主人も、「さあ~?Mさんという家はあったようだけど、場所は何処だったか?」と首を傾げるばかりだった。

 京都での1年は、まさにシュトルム ウント ドランクの1年だった。己の若さが、周囲の温情に甘んじた過去の生き様を断ち切らせ、敢えて厳しい道を選んだものの、次第に自分の能力と意思に自信が持てなくなった。時に激しい後悔の念に襲われながらも煩悶と葛藤の日々を過ごしていた。底知れぬ孤独の中で、手元の金が無くなる恐ろしさも初めての経験だった。そしてついには体が変調を来し、ようやく病院へ行ったものの診察料が払えず、金を踏み倒した。このことはいつまでも深い慚愧として胸の中の澱となって、いまだ消えない。

 下宿から数分で市電通りと交わる銀閣寺道の交差点に出る。そこに琵琶湖疎水の橋があった。その橋の袂に毎夜ラーメンの屋台が引かれて来て、深夜近くに下宿を抜け出ては空腹を満たした。そしてさまよい歩いたのが「哲学の道」である。ある時は、深夜の道を歩き続けて南禅寺の大門に辿り着いた事があった。煌々と月光に照らされた巨大な門柱を前に、何故か滂沱と涙を流しながら立ちすくんでいた記憶がある。

 翌朝、宿をチェックアウトする前に旧市電通り(今はもう路面電車は走っていない)を歩いて南禅寺に足を運んだ。大門を見上げながら遙か昔の感慨に耽り、荘厳な読経の声に誘われるように扉が開いた本堂に向かった。南禅寺からの帰り道は、若王子橋からの「哲学の道」を、遙か昔の下宿に帰る時のように、歩いたのだった。

 そして散策路の傍らにあったのが、当時の俺が私淑して新たな人生を踏み出した哲学者西田幾多郞の歌碑である。
「人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行なり 寸心」

 過去の人生において「もしも」を考えても詮無いことだが、もしも俺が京都にいた時に、悩み苦しみながら何度も歩いた「哲学の道」に、この歌碑が立っていたならばと・・・・・・
(この歌碑は昭和56年5月に建立された。俺が京都を離れた12年後である)