山のパンセ(その86)

 「弱いのも悪くない」ー伊集院静著「時計の傷」よりー

 今年の秋の山暮らしも40日以上が過ぎた10月最後の土曜の朝、やや強い北西の雨風が降りしきるキャンプ場のテントの中で、為す術もなくラジオを聴いていた。数日前からおやじ山も急に冷えて、そろそろテントを撤収して山を下りる算段をしていた頃である。そのうち音声が「NHKラジオ文芸館アンコール」の番組になって、清水紀雄アナウンサーの朗読にみるみる引き込まれてしまった。内容は伊集院静の短編「時計の傷」だった。(下記の文は5日前(10月29日)ラジオで聴いてまだ記憶に残っている小説のストーリー(あらすじ)で、清水アナの朗読、即ち小説の文章通りではもちろんない。つまり小説のストーリーをなぞった私の盗作文ということになるが、どうかお許し願いたい。)

 小山隆三と妻の勢津(せつ)は結婚して55年、既に80歳を過ぎた日々を駿河湾を望む家で暮らしている。そしてこの日は、省庁に就職が決まった孫のこういちが、二人を訪ねて来る日だった。隆三は再生不良性貧血で3年で4回の化学療法を受けた病いの身だったが、今は孫を迎えるために無理やり退院して自宅に戻っていた。隆三にはどうしても孫に渡したい物があった。現役時代にイギリスで買った時計である。

 その時計は、隆三が運輸省の官吏として独身時代にイギリスに出向していた時、現地で月給の何倍もする時計に目が留まったが、買うのを何日も躊躇していたものだった。そんな隆三に、ある日店員が言った。「この時計はあなたがお使いになった後、息子さんが、そしてお孫さんが使うことができますよ」と。この言葉が決め手となって隆三はその時計を買ったのである。

 妻の勢津は腺病質で、結婚後なかなか子どもができなかった。そんな勢津を、ある日隆三はすっぽん料理屋に連れて行き、生き血を抜く料理に気を失いかけた勢津に無理やり食べさせて、その後男の子を授かった。一人息子の英幸(ひでゆき)である。
 
 英幸は成績もよく、大学に進学して好きな子ができた。しかしその子に失恋してからうつ病になり、1年間休学した。そして復学して間もなく、新しい彼女ができた。あけみである。
 英幸があけみを連れて実家に帰り、隆三と勢津に結婚を申し出た時、傍らのあけみは平然とたばこをふかし、一目であけみは堅気の女でないことが分かった。母親の勢津は二人の結婚に強く反対した。そしてついに、英幸が口にした言葉に勢津は言葉を失った。「あけみのお腹には僕の赤ちゃんができているから」と。隆三は驚愕する勢津をなだめてから、「私はお前たちの結婚には反対はしないが、英幸が大学を出て、自分たちの生計を立ててから一緒になったらどうか」と二人を諭した。

 その英幸は、それから間もなく、子どもの顔を見ることもなく交通事故で死んだ。隆三があけみを探し始めたのはそれからである。そして隆三は、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて勢津のもとに帰って来た。勢津はまた、「どうして私たち夫婦が、この子を引き取らなければならないのか」と反対したが、隆三は「あけみは、赤ん坊(こういち)を自分で育てることはできない、と言ったから」と、妻を説き伏せた。勢津もまた、隆三から抱き渡された赤ん坊の小さな手に触れた時、「こういちは私たち夫婦で育てよう」と腹を固めた。

 隆三と勢津夫婦が手塩に掛けて育てたこういちが11歳の時、事故による大きなケガで入院した。緊急に輸血の必要から隆三と勢津から血液を貰うことになり、この時になって初めて、勢津は自分たちとこういちの血液型が全く異なることを知った。つまり、こういちは英幸とあけみの間にできた子どもではなかったのである。「あなたはご存じだったのですか」と勢津は隆三に激しく詰め寄った。隆三はさほど驚いた様子もなく、ただ「あけみは英幸が、たとえごく短い期間だったとはいえ、愛した女性だ。そんな縁ある女性の子どもを私たちが引き取って育てるのは何ら不思議な事ではない。そして私らは今、紛れもなくこういちの父であり母親ではないか」と勢津に言った。

 九州の大学に入学して4年間の学生生活を終え、省庁への就職も決まって一時帰宅したこういちのために、勢津は腕によりをかけてすっぽん料理を作っている。勢津にとって曰く因縁のあるこの料理は、こういちの大好物だった。そして隆三とこういちは今、隆三がイギリス駐在当時に毎晩のように聴いていたというモーツァルトのホルン協奏曲のレコードを、二人並んで駿河湾を望む縁側で聴いている。春のそよ風が、眼下に広がるミカン畑の花の香りを運んで来ていた。

 夕餉が終わり、隆三とこういちは一つ部屋で枕を並べ、勢津は隣の一間に寝た。夜中に勢津は、隣の部屋で話す隆三とこういちの低い会話で目を覚ました。初めは省庁に就職したこういちが、自分を除く同僚たちが、皆一流大学出だと悩んでいる様子に、隆三の、「同じ役所に入ったなら、もはや出身大学がどこかなど関係ない。要はこれから先、自分がどうするかだ。どんな仕事でも、コツコツやっていけば、必ず実るはずだ」と、孫を励ます声が届いた。
 それから、隆三がこういちにプレゼントした時計の話になった時、隆三は「時計のガラスに傷がついているが、そのうち修理を頼むつもりだ」と伝えると、こういちは「いや、僕はこのままの時計でいい。だっていつでも隆三さん(隆三は「おじいちゃん」と呼ばせなかった)から頂いた時計だと分かるから」と断るのである。勢津には、その傷の意味がもちろん分かっていた。夫婦で長く胸の奥に畳んでいた重く辛い記憶だった。

 それは、隆三が運輸省のある地位についていた時、政治家の汚職事件に絡んで連日検察庁の捜査を受けた。毎夜遅くまで取り調べを受け、深夜にげっそり頬を痩せ細らせて帰宅する隆三を見るのは、勢津には忍びなかった。そんな折、溝口という隆三の同僚が自殺した。隆三にとって溝口の死は他人事ではなかった。場合によっては溝口の立場は自分と入れ替わっていたかも知れない。自分の弱さとともに、そんな溝口を救えなかったことが隆三の無念さを一層募らせた。そして溝口の葬儀に参列した隆三が目にしたのは、彼の上司たちが平然とした態度で立ち居振る舞っていたことである。隆三は腹の虫が治まらなかった。そしてついに席を立って、葬儀場の壁に腕にはめた時計が飛ぶほどの勢いで拳を叩きつけた。骨が見えるほど裂けた指の付け根の傷痕は、時計の傷とともに、隆三と勢津夫婦のその後の人生の中で、拭い去ることのできない澱として残ったのである。。
 
 隆三はそんな過去には一言も触れず、まるで自らの遺言でもあるかのようにこういちに話しかけていた。「うまく説明できんが、どんな風に生きても、人は悔やんだ事と出くわす。その悔やみを忘れずにいることが、大事かも知れん。あの時計の傷は、私の弱さを教えてくれて来た。けど、この頃は弱いのも悪くないと思うようになった」

 勢津は隣の間で、声を殺して泣いた。主人は見た目で人を判断したりはしない実直な生き方を貫いてきた。そんな生真面目で不器用で融通の利かない人を、私は時には責めもしたが、今はこの人と一緒で本当に幸せだったと心から感謝している。できればあの時計は、息子の英幸からこういちへと受け渡してもらいたかったが、しかし隆三から私たちの孫へとしっかりと引き継がれたと思った。

 孫を送り出した当日、隆三は、春日に光る駿河湾の風がミカンの花の香を運んで来る自宅の縁側で息を引き取った。勢津は隆三の躰の温もりが徐々に消えていくのを自身の躰に感じながら、いつまでも隆三を優しく抱き続けた。勢津はモーツァルトのホルン協奏曲が鳴り響く不思議な安らぎの中で、ずっとずっとこのままでいたいと思った。

(昨11月2日の新聞に、伊集院静氏の秋の褒章(紫綬褒章)の受章記事が載っていた。氏のコメントはこうである。「これからも人間を描くってことしかない。特に仕事に打ち込んでいる人をきちんと書ければ、人の本質を書ける部分もあるかもしれません」)
 
(2016年11月3日 記)