(その53)
わたしの「不思議」−金子みすゞの世界−
山口県の長門市仙崎にある「金子みすゞ記念館」に立ち寄ったのは、2012年1月下旬である。山口県内で何日か続けていた森林調査の仕事が、翌日から拠点を西に移すために、たまたま立ち寄った仙崎という漁師町が、童謡詩人金子みすゞのふるさとだったのである。
既に時間は午後の3時を過ぎていたと思う。それにぶるぶると肌寒い曇り空で、通称「みすゞ通り」には殆ど人気がなかった。ここで金子みすゞが短い生涯の殆どを過ごしたと言う古い町並みの所々に、往時を偲ばせるみすゞの可愛い詩が掲げられてあった。
角の乾物屋の
塩俵、
日ざしがかっきり
もう斜。
二軒目の空家の
空俵、
捨て犬ころころ
もぐれてる。
三軒目の酒屋の
炭俵、
山から来た馬
いま飼葉。
四軒目の本屋の
看板の、
かげから私は
ながめてた。
「さて、金子みすゞ記念館はどこだろう?」と歩いていくと・・・見つけた家の戸が閉まっている。「あれ?」と思って戸口の張り紙を見ると、入口は隣の本屋だと書いてあった。「金子文英堂」。みすゞが幼少時代を過ごした実家である。
中に入って先ず「金子みすゞの生涯」と記したパネルを読んでいく。少女時代のエピソードや北原白秋、野口雨情、西條八十らが活躍していた大正12、3年頃、投稿詩人としてのみすゞの童謡詩は異彩を放っていたことなどが書かれてあった。
そして結婚、出産、その後、夫から童謡を書くことや投稿仲間との文通を禁じられ、夫と別れることになる。離婚手続が済むと親権のある父親よりわが子ふさえを渡せと言われて、終に自殺を決意する。
昭和5年3月9日、みすゞは一人で写真を撮りにいき、その帰り道に桜餅を買った。そしてふさえをお風呂に入れて、たくさんの童謡を歌い、それからふさえと一緒に桜餅を食ったのだという。
翌3月10日、3通の遺書と写真の領収書を残して、みすゞは26歳の短い生涯を閉じた。
その写真館で撮ったみすゞの写真が、奥の壁に飾ってあった。
こころ
お母さまは
大人で大きいけれど、
お母さまの
おこころはちひさい。
だって、お母さまはいひました、
ちひさい私でいっぱいだって。
私は子供で
ちひさいけれど、
ちひさい私の
こころは大きい。
だって、大きいお母さまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんな事をおもふから。
金子みすゞが残した手帳の、169ページと170ページに書かれた「こころ」という自筆の詩に目が止った。母と子の立場の違いを、こんな的確に、わが子への限りない愛と悲しみとをスラリと乗り超えて透明に表現した詩の一字一字をなぞりながら、涙が止まらなかった。
仙崎の町を離れる前に、みすゞがいつも見ていた仙崎湾に出てみた。穏やかな冬の海である。
弁天島
「あまりかわいい島だから
ここには惜しい島だから、
貰ってゆくよ、綱つけて。」
北のお国の船乗りが、
ある日、笑っていいました。
うそだ、うそだと思っても、
夜が暗うて、気になって、
朝はお胸もどきどきと、
駆けて浜辺へゆきました。
弁天島は波のうえ、
金のひかりにつつまれて、
もとの緑でありました。
山口県の出張から帰って、2月からは今度は千葉県の森の調査で房総の山々を歩き回った。宿は大多喜町の山中でケイタイの電波もインターネットも通じない場所だった。仕事から帰っていつもごろごろしていたが、暇にまかせて手帳に書き写してきた金子みすゞの詩を繰り返し読んでいた。
不思議
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかってゐることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑(しば)の葉たべてゐる、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいち”らぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、といふことが。
金子みすゞの「不思議」を何度か読んでいるうちに、「俺もこんな調子で一つ作ってみよう!」と不遜にも思ってしまった。以下が千葉の山中の宿でできた我輩の詩である。
わたしの不思議
私は不思議でたまらない、
毎日お酒を呑むたびに、
気持ちがピンクに染まるのが。
私は不思議でたまらない、
そして生活底つくと、
顔が真っ青になることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいち”らぬ通帳の、
お金がどんどん消えるのが。
私は不思議でたまらない、
カミさんにきいたらへそ曲げて、
あったりまえでしょ、と叱られた。
(2012年2月13日 記)