山のパンセ(その80)

 忘れ得ぬ夏

 昨日は白露、記録的な猛暑日が続いた今年の夏が終わった。そして俺が、ギラギラ照りの暑い夏になると必ず思い出すのが、あの跨線橋の上で会ったおやじの姿である。

 それは、昭和30年か31年、俺が小学校4、5年の時の夏休みの記憶である。

 この頃俺は昆虫採集に取りつかれていて、夏休み中は殆ど毎日、捕虫網を手に蝶々を追い駆け回していた。当時長岡市旭町の鉄道官舎に住んでいたが、ここから蝶捕りに行く所は大体決まっていた。1ヶ所は長岡人が「お山」と呼んでいる悠久山、そしてもう1ヶ所が、国鉄第二機関区の広い操車場に架かる跨線橋の土手だった。

 おやじは当時、この第二機関区の線路班に勤めていた。

 旭町の家を出て、線路脇の田圃道を1時間ほど歩くと、この跨線橋の土手にぶつかる。ここから土手に沿って登り口まで迂回し、長いだらだら坂を跨線橋へと上っていくのである。この跨線橋を渡り終えた向う側の土手が、いつもの捕虫網を振るう場所だった。登り際の土手の右側には、おやじの宿直の翌朝、いつも弁当を届けにきたおやじの線路班詰所があった。

 土手の斜面には夏草が茂り、ノアザミやウマノスズクサ、ヒルガオなどが咲いていた。土手の下は野菜畑があって、その一角には百日草やケイトウ、グラジオラスなどが咲き揃っていた。キアゲハやクロアゲハなどの大型の蝶は、この花畑から土手の斜面に沿って翔んでくる。この蝶を狙って土手の上で網を構えるのである。

 この捕虫網は、内職で洋裁をしていたお袋が、古くなったレースのカーテンで作ってくれたものだった。駄菓子屋で売っている目が粗く浅い網では、蝶の翅が痛んで標本作りが上手くできなかったし、絹かナイロン地の専門の網は、とても高価で自分には買ってもらえる代物ではなかった。

 この手作りの捕虫網を振るうと、網から風が抜けずに、まるで強風に泳ぐ鯉のぼりのように膨らんだ。ある日この網の中に、下の畑から蔓が伸びて、土手の中腹あたりで実を生らしていたカボチャを入れて、家の土産にと意気揚々と持って帰った。そして「母ちゃん、土手でカボチャ見つけた」と得意満面で見せた途端、お袋が「ヒィーッ」と叫んで、「お前をこんなドロボウに育てた覚えはない!」とこっぴどく叱られた。そして泣き泣き元の土手に置いてきた苦い思い出もある。

 そしてこの日も、いつものように捕虫網を持って第二機関区の土手に向かった。土手を上がり跨線橋に差し掛かると、真夏の太陽に炙られた橋の上はゆらゆらと陽炎が立ち昇って、トラス型の鉄橋が朧に見えるほどだった。その陽炎の奥から、一輪車を押した黒い人影がこちらに向かって来た。「あっ、父ちゃんだ!」と気付いて、一瞬心が弾んだ。
 しかしギラギラと油照りの太陽で世界がしんと静まり返ったような空間の中を、父はじっと下を向いて、重そうに一輪車を押していた。そのおやじの姿が、何とも哀れで悲しかった。真っ黒に日焼けした上半身には、汗でぐっしょり濡れた半袖のぼろの下着が黒くへばりついていた。そして泥だらけの菜っ葉ズボンとぶかぶかのゴム長。その余りにみじめなおやじの姿に、俺はたじろぎ、開きかけた心が一気に閉じてしまった。

 ここでおやじとすれ違うことに、堪らない恥ずかしさを覚えた。くるりと踵を返して逃げ出したい衝動に必死に耐えた。そして、おやじと跨線橋の上ですれ違い、俺は下を向いたまま無言だった。おやじは何かを話しかけた筈だ。その記憶は、何もない。ただ俺は、じっと口を閉じたまま、おやじの脇を通り過ぎた記憶だけは、いまだに胸の中に鮮明に焼き付いて苦く残っている。

 俺は何故か、この時のおやじの姿を、長い間忘れないで来た。俺が国分寺にあった国鉄の幹部養成の学校に合格し、仇をとったようにおやじを喜ばせ、そしてその僅か3年後に国鉄を辞めておやじを落胆させ、さらにその後、俺の人生の様々な転機を迎えた時、俺はきっと、この跨線橋の上の一輪車姿のおやじを思い出し、振り返っていたように思う。

 また、今年も暑い夏が来て、ふとこのシーンを思い出し、一輪車姿のおやじを脳裏に浮かべる時、俺は堪らなく悲しく、そして懐かしくなる。俺はあの時、「父ちゃ~ん!」と叫んでおやじに甘えたかったのだ。それが、それが・・・あの真っ黒になって働いている姿に拒絶されて、おやじの胸に飛び込むことができなかった。その悔いと慙愧が、60年経った今年の夏も、また辛く思い出されるのである。

(2015年9月9日 記)

 「日記-仙人のつぶやき-(9月9日日記)」を一部修正して転載しました。