(その27)
別れ
2008年10月、おやじ山に冷たい雨が降り続いて季節の深まりが一段と感じられるようになった朝、実家から叔父の死を知らせる報が入った。そして一人で山間地の医者をやっている長兄から、毎日自分頼りに通院して来る患者のために突然病院を休む訳にもいかず取敢えず家を代表して葬儀に行ってもらいたい、との依頼があった。場所は群馬県の館林市である。通夜は10月29日、告別式と葬儀は翌30日とのことだった。
29日朝、時雨のキャンプ場を車で発って実家に立ち寄り、兄嫁が用意してくれた葬儀の品を受取って関越自動車道に入った。そして秋雨がしょぼ降る越後から国境の長いトンネルを越え、眩しい秋の陽が降り注ぐ関東に出た。叔父の家に着いたのは午後3時過ぎである。早速祭壇の前で眠る叔父の枕元に寄って手を合わせてから、改めて親戚の人たちと久闊を侘びながらの挨拶を交わした。そしてやはり、この場には叔父の長男であるT君の姿はなかった。
親戚の中でもT君とは大の仲良しだった。私のおやじと館林の叔父とは腹違いの兄弟だったが、生前のおやじは何故かガキの私だけを連れて遙々長岡から館林のこの家を何度か訪れていた。おやじが子どもの頃に別れた父親に会いに来ていたのだが、私はこの家族からは「さん」付けで呼ばれてとても大事に扱われていた。祖父が若い時に生き別れたおやじの事を自分の実子でありながら素晴らしい尊敬する人間として繰り返し家族に語り続けてきたことは私にも分かったが、お蔭でガキの私までもこの家ではおやじの恩恵を受けていたのである。T君は私より2つ下で、やはり子どもの時から私を「さん」付けで呼び心から慕ってくれていた。
T君の頭脳は抜群だった。中学、高校と抜きん出た秀才で、そのまま大学に進むと思いきや叔父が勤める町工場に就職した。職業軍人だった私のおやじが戦後何度も国鉄をクビになりながら臨時雇いの線路工夫で食い繋いでいた我家同様、この叔父の家も貧しかったのである。
T君と長く交わしていた年賀状がいつの頃からかパタリと来なくなり、そしてある年突然舞い込んだ奇妙なはがきの文面からT君の病気を知った。統合失調症、昔の病名でいう精神分裂病である。
29日の通夜が済み、そして翌30日、一晩泊った市内のホテルから告別式の会場に足を運ぶと、T君がいた。長い入院生活を続けているがこの日だけは病院の許可を得て来れたのだと弟のHさんの説明である。私を見つけたT君が今にも倒れそうに身体を傾げて寄って来た。私はその手を取ってロビーの椅子に座らせ葬儀が始まる直前まで二人だけで話した。T君との会話は、残念ながら半分も聞き取れず、聞き取れた5分の1も理解することが出来なかった。しかし私はT君の口元に顔を寄せ懸命に頷きながらT君の言葉に耳を傾けていた。
背を丸めて椅子に座ったままのT君喪主の葬儀は、弟のHさん、妹のSさんの介添えで何とか終わり、いよいよ火葬場へと向う出棺前の最後のお別れとなった。葬儀の祭壇からフロアーに下ろされた棺の中に親族や参列者がシキミの枝と生花を添えて叔父を送り出すのである。叔父の遺体が菊の花やランで埋められいよいよ棺の蓋が閉じられようとしたその時だった。T君がヨロヨロと棺に掴まり、叔父の顔を何度も撫でながらその顔を包み込んでいる生花を1個また1個と丁寧に並べ直している。そのT君の姿は、深い悲しみと苦しみとを互いに長く背負い続けて来た親子が、最後に侘びながら別れを惜しむひたむきで無垢な崇高さがあった。妹のSさんが駆け寄って「アンちゃん、もういいんだよ。ほら父ちゃん、今が一番幸せだって・・・」と兄に言い聞かせながら棺を離れるように促した。その時T君がはっきりした声で呟いたのである。「父ちゃんは、死んだんじゃない。人間はきっとまた生き返るんだ。な、そうだろう?−− ・・・」 「ワーッ!」とSさんが大声で泣き崩れた。
火葬場で叔父の遺骨を受取るまでの間、待合室で簡単な清めの酒膳が用意された。そしてT君と向かい合って傾いた秋の陽が差し込む窓辺に座り、私はT君が何度も繰り返す同じ言葉に繰り返し頷きながら杯を重ねていた。
「涙の河」
静かに滂沱した君の
涙の河を 君はいつか渡ってくれるだろうか
肩震わせて嗚咽した君の
涙の河を 君はいつか越えてくれるだろうか
そして終に号泣した君の
涙の河を 君はいつか埋めてくれるだろうか
そしていつかまた その涙の河底に
君は逞しく生きる野の花々を咲かせてくれるだろうか
(2008年12月16日午後3時30分 記)