山のパンセ(その83)

 弔辞-寺井拓也君に捧ぐ
我が最大の友へ
 全く迂闊でした。今年の君からの年賀状で気付くべきでした。毎年もらう君からの年賀状との違いを・・・。君が逝く前に、もう一度、もう一度、君に会いたかった。
 確か2012年の夏と記憶しているが、君が精魂傾けて著した『原発を拒み続けた和歌山の記録』が刊行され、多分そんな活動のために君が田辺から上京する折、「時間が少しあるので会いたい」と連絡があった。馬鹿な俺は「せっかく久しぶりに会うなら、互いにゆっくり時間が取れるまたの機会にしよう」と断ったのだ。俺たちには「またの機会」など無いのだと、その時はっきりと認識すべきだったのに・・・。 寺井~! 勘弁してくれ~!

 毎年、雪融けの季節になると郷里長岡の山に入って過ごしているが、今年も山暮らしが37日目になる4月17日、突然家内から電話が入って、君の悲報を知らされた。この日は長岡でも大風が吹いて、俺は手造りの小さな山小屋の中で、ぼうぼうと吹き荒れる嵐よりも大声で泣き続けた。
 そして昨4月29日、49日ぶりに藤沢の自宅に帰り、既に届いていた秋代様からの君の死去を知らせるお手紙を開いた。繰り返し繰り返し読みながら、涙が止まらなかった。

 君との数々の思い出は一つひとつ決して忘れないが、君は俺にとって間違いなく命の恩人でもある。君と一緒に学んだ東京国分寺の中央鉄道学園時代の楽しい思い出。俺が野放図な寮生活を送っている中で、君は後に洗礼を受けることになる内村鑑三の著書を読みふけり、俺に読書の眼を開かせてくれた。俺が国鉄を辞めて郷里に帰った時、君は実家まで訪ねて来て、俺が激昂して信濃川に飛び込むのを制してくれた。そして俺が東京で、まさにシュトルム・ウント・ドランクの極貧の時期に、君は勤務地の高崎駅の改札口越しに、訪ねて行った俺に上野駅までの帰りの電車賃と俺が生き延びるためのお金を渡してくれた。そして俺が結婚して長女が生まれ、松戸の小さなアパートで暮らしていた時、君が訪ねてくれて、陽に輝く荒川の土手に座って俺の小さなおさな児を抱いてくれた。みんなみんな、君の笑顔とともに俺の胸にしっかりと焼き付いている。

 そんな君は、本当にもういないのか。俺は、悲しい。寺井~!ありがとう!本当に、本当に、ありがとう!
 2016年4月30日                           関 孝雄