山のパンセ(その78)

 父なるふるさと 母なる家

4時に起きてドラム缶風呂の水抜き、小屋に持ち込んだクーラーボックスや寝袋や大型リュックなどの所帯道具(?)をネコ(一輪車)に積んで見晴らし広場に停めた車に詰め込み、急いで小屋に戻ってバタバタと小屋の内外(うちそと)を片付け終わった途端、予報通りポツポツと雨が降り出し、そのうち「ザ~ッ」と本降りになった。
 雨空で薄暗くなった小屋の中に入って、今回もお世話になったSさんに今日これから下山する旨を携帯電話で告げ、残りのお湯で最後のコーヒーを飲んだ。
 そして午前9時半、おやじ小屋に鍵をかけて、いつものように大声で「ありがとう、ございましたあ~!」と頭を下げて山を下った。

 Sさんのお宅においとまの挨拶に伺うと、ユーゴー(夕顔)やらカボチャやらキュウリやらが一杯詰まった段ボールが玄関前に置いてあって、いそいそとSさんが俺の車に積み込むのである。涙が出てしまう。

 Sさんにお別れを言い、途中のスーパーに寄って花を買った。おやじとお袋が眠っている托念寺の墓参りである。墓前に花を活けてから、やっぱり長い時間手を合わせて祈った。墓の中のおやじもお袋も、「孝雄にこんないっぱい頼み事をされてもなあ~」と思わず苦笑するほどのお願いをした。

 托念寺の裏門から境内の外に出ると、広々と青田が拡がり、その向うにガキの頃の遊び場であった信濃川の土手が、一本の緑の線で空と大地を分けて長く延びていた。その土手に向かって青田の道を歩いていった。農道の脇には真紅のサルビアが植えられて、堤に登るスロープまで来ると、堤防の先には信濃川に架かる長い鉄橋のトラスが見えた。この鉄橋を蒸気機関車が煙を吐いて渡っていた幼い頃の記憶が彷彿と甦って、胸が締め付けられるようだった。まさに、

  青田道少年の日へ真直ぐに (松本 精)

 である。


 墓参を済ませて、今は長兄が住んでいる実家に立ち寄った。玄関のチャイムを鳴らしたが誰も出て来ない。縁側からガラス戸越しに家の中を覗くと、洗濯物が干してありラジオも鳴っていたので、ちょっとした用事で出掛けている様子である。
 家の回りをぐるり一周して、遠い昔におやじが植えたコブシやアンニンゴの木(ウワミズザクラ)やカキやクリの木を一つ一つ見上げながら、それからの長い長い年月を思った。

 玄関先に戻って、ひょいと庭の草むらに隠れるように佇んでいる石に気付いた。昭和39年、おやじが国鉄を定年退職する間際に、ここおやじの故郷に初めて自分の家を建て、長く苦労を共にしたお袋と一緒にこの家で余生を送ろうとした矢先に、お袋は死んだ。結婚以来、ずっと狭い借家や鉄道官舎で暮らし、そしておやじにとっては一世一代の自分たちの家を建て、初めての持家で共に暮らす悲願も叶わず、お袋を一度もこの家に連れて来れないまま先立たれたおやじの落胆は、いかばかりだっただろうか。この庭石に刻まれた文字を何度も読み返しながら、おやじの慟哭が聞こえてくるようで涙が止めどなく流れるのだった。

 おやじが自ら彫り刻んだ庭の石には、こう書かれている。

   父なるふるさと
   母なる家

 おやじ~!おやじ~! あ・り・が・と・う~!!


(2015年8月9日 記)

 本稿は、「日記-仙人のつぶやき-(2015年7月28日日記<おやじ山の夏2015-終章->」より転載しました。