山のパンセ(その77)

 寺山修司の歌が聞こえる


 7月17日の朝日新聞「声」欄に22歳の大学院生の投書が載っていた。要旨は以下の通りである。

 <私たちは平成の時代に生まれた。生まれた時、既にバブルは弾けて、それからイラク戦争、リーマン・ショック、東日本大震災に遭い、そして今、自分の国が70年前の教訓と民主主義に別れを告げようとしている。私たちは「捨て駒」としてこの世に生まれたのか。><若者たちの生活は保障されず、庶民の生活や戦場の実情も知らない権力者に支配された国を、なぜ私たちは愛さなければならないのか。愛することもはばかられるこの国を守るために、命を差し出せというのだろうか。>

 何度読み返しても涙が出てしまう。今の安倍政権に、この若者の痛憤がどれだけ届くだろうか!若者たちの苦悩を、自らの痛みとして呻吟し煩悶する大人の度量を、政治家たちはどれだけ持ち合わせているだろうか! 

 今、この国のあり様が大きく変えられようとしている。解釈改憲で集団的自衛権を是とする連中は、「我々と価値観が異なり」「常識が通じない」周辺国の脅威を口にする。
 しかしこの若者が書いているように、<そもそも何から日本を守るのか>と問われた時、「守るに値する我が国の国家の品格とは何だったのか」をもう一度胸に手を当てて呼び起こす必要がある。それが憲法9条を骨格とする日本の平和憲法とその理念だったのではないか。

 戦後70年、その長きに渡って先人が守ってきた大切なものを、俺たち大人は次の若い世代にきっちりと引き継ぐ義務があると思っている。それらは日本の美しい森や自然であり、そして日本の憲法だと信じている。「脅威」を全て軍事力に頼るという発想は、まさに日本も「価値観が異なり」「常識が通じない」かの国と同じレベルになり下がることを意味しているのではないか。

 かの寺山修司の歌が聞こえる。

 『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや』   ああ~ッ!


(2015年7月18日 記)

 本稿は、「日記-仙人のつぶやき-」(2015年7月17日日記)を改題して転載しました。