(その69) |
再び ”There is no wealth,but life.” のこころ |
キャンバスベッドに横になったまま滴の音を聞いていた。外は雨かミゾレのようである。もう今日の外仕事はお預けで、再びおやじ小屋でじっと待機である。 そして今日もまた、朝のうちに薪小屋から段ボール箱一杯の薪を小屋に運び入れて、ストーブを焚きながらベッドの上で宇沢弘文の「経済学は人びとを幸福にできるか」を読み続けた。昨日雪囲いの板を小屋の窓に打ち付けたせいで中が随分と暗くなって、ヘッドランプとストーブの火の明かりが頼りの読書だった。ヘッドランプを消せば、まさに二宮金次郎の世界である。 本書の冒頭で宇沢弘文はこう書いている。「今から五十年前、私は数学から経済学に移った。その直接的なきっかけは、河上肇の『貧乏物語』を読んで、大きな感動を覚えたからであった。とくに、序文で、河上肇がジョン・ラスキンの有名な言葉を引いて、経済学の本質を説いたが、その言葉は、当時の私の心情にぴったり適合した。"There is no wealth, but life." 若いころお寺で修業したことのある私は、この言葉を「富を求めるのは道を聞くためである」と訳して、経済学を学ぶときの基本的姿勢をあらわすものと大切にしていた。」 そして本書の中で、彼が展開してきた経済学とは「社会的共通資本の概念を中心に据え、資本主義、社会主義を超えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような経済体制を実現しようとするものである。」と述べている。社会的共通資本とは、大気、水、森林、河川、海洋等の「自然環境」、道路、交通機関、上下水道、電力などの「社会的インフラ」、そして、教育や医療といった「制度資本」の3つの範疇からなる。そしてこれらの社会的共通資本は、「決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。」と繰り返し強調しているのである。 今日読み進んだ第4部「学びの場の再生」の第11章「果たせなかった「夢の教科書」作り」では、先ず制度資本としての教育の重要性を、「教育とは、人間が人間として生きてゆくということをもっとも鮮明にあらわす行為である。一人ひとりの子どもについて、その置かれた先天的、歴史的、社会的条件の枠組みを超えて、知的、精神的、身体的、芸術的な営みをはじめとしてあらゆる人間的活動の面で、進歩と発展を可能にしてきたのが教育の役割である。学校教育は、このような教育の理念を具体的なかたちで実現するための社会的制度であって、その社会の社会的安定性、文化的成熟度をあらわすものであるといってよい。」と述べている。 その上で著者が二十年間にわたって監修にたずさわってきたある書籍会社の小学校社会科教科書編集で、文部省の学習指導要領に拘束され、書籍会社が文部省による深刻な「いじめ」にあった事実を挙げて、「文部省は、教科書検定制度を悪用して、自民党のもっていた、時代錯誤の、偏向したイデオロギーを基礎教育に持ち込んだ。日本社会は現在、経済的、技術的観点からみて、世界でもっとも高い水準を誇っているが、その反面、知性の欠如、道徳的退廃、感性の低俗さという面で、おそらく日本に比較できる国は少ないのではないかと思われる。その、もっとも大きな原因は、戦後50年にわたって、日本の基礎教育が文部官僚によって管理、支配されてきたことにあるといっても過言ではないであろう。」と激しく批判している。 この批判が一老経済学者のたわごとではなく、欧米各地の名門大学のプロフェッサーを歴任し、彼の教え子からノーベル経済学賞の受賞者を出し、さらにはローマ法王ヨハネ・パウロ二世から請われて、ローマ教会がそのときどき、世界が直面するもっとも重要なことがらについて教会の正式な考え方を通達する文書「レールム・ノヴァルム」のアドバイザーとして宇沢氏がローマ教会二千年の歴史で外部者が参与した最初の人物であり、そして日本の文化勲章受章者でもある世界の知の巨人としての、痛烈な批判であることに心する必要がある。 揺れ動くストーブの炎に照らされた書物のページが、著者の激憤でメラメラと燃え上がるようだった。文字を追いながら終に息苦しくなって本を傍らに置いた。「パチン」と大きく薪が爆ぜて「フ~ッ」と溜息が漏れたが、その音でようやく心に隙間ができて、書物の緊張から開放されたのだった。 (2014年12月15日 記 「2014年12月9日日記」<おやじ山の冬2014>より一部修正して転載」) |