山のパンセ(その97)

 裸体考ードラム缶の水風呂を浴びて思ったことー
                         
 今年(2018年)の新潟地方の梅雨明けは7月9日、例年より15日も早い梅雨明けだとラジオが報じた。おやじ山の長岡では、既に6月下旬から30℃以上の夏日が続き、7月11日、12日の2日間の雨を最後に、8月5日までギラギラ太陽が照り付ける真夏日と猛暑日の連続だった。
 それで梅雨明け宣言が出た翌日(7月10日)、小屋脇に野ざらしにしていたドラム缶風呂を綺麗に洗っておやじ沢から引いた谷川水を張り、一日の仕事が終わった後に入るのを日課とした。夕方と言わず、午前中の大工仕事で汗びっしょりになって昼飯前に水風呂に飛び込んだり、夜暗くなって缶ビール片手にドラム缶風呂に浸かりながら、おやじ沢に飛び交うホタルをうっとりと眺めたりした。(7月10日には30頭ほどのホタルが舞った)
 
 おやじ山でのドラム缶風呂の楽しみは、もちろん火照った身体を癒したり汗を流してさっぱりすることだが、上がってからの何とも言えない爽やかさである。素っ裸でドラム缶脇の踏み台に立って、周りの木々の濃い緑に目をやったり、山菜山の斜面にまだら模様に射すオレンジ色の残照を眺めたり、鈴を振るようなヒグラシの鳴声を浸み入るように聞いたりする、まさにかけがえのない満足感である。この踏み台の高さは1メートルにも満たないが、素っ裸で仁王立ちしてみると、何やらおやじ山の大自然を睥睨しているような一種の優越感に浸ってしまう。そんな世界に身を置いたことはないのでよく分からないが、有名な歌手や俳優などが拍手喝采の観客を前に舞台の上に立っている時のエクスタシーに似たようなものかもしれない。
 さらに、そのまま小屋に入るわけではなく、素っ裸でおやじ小屋の周りを闊歩する時の感情は何と表現したらいいのだろうか?もちろん爽快感あり、「ざまあ~みろ!」とでも叫びたいような優越感あり、そして自然を服従させたかのようなやはり恍惚とした感情である。
 
 酷暑に喘ぎながら、この夏は何十回このドラム缶の水風呂に浸ったことだろう。そして次第に、この水風呂に入る度に体験していた先の感情が変化して行った。素っ裸で踏み台の上に立ち、何も身に纏わずに闊歩することが常態になった時に、大自然の中に自分の裸体を晒すその不確かさ、丸裸の自分が何と脆弱で小っぽけな!という、毛深く蒼々としたおやじ山の大自然との圧倒的な力量の差に気付かされたのである。原始の時代の人もまた、裸でいる自分を、限りなく不確かで儚く思ったのではないかと想像もできた。だからこそ自然の中に裸で身を晒した時に、自然と対立するのではなく、そこに溶け込み、同化して、自然と一体になる必然があると先人達は考えたのではなかったかと。

 人は衣服を着て己が裸体を包み隠し、道具を作り、器械を発明し、技術を進化させて自然と対立し、自分は優位に立てたと錯覚してきた。その人類の驕りが、現代の地球温暖化を招き、異常気象で年毎に甚大な自然災害を頻発させ、そして今年の夏の世界的な猛暑を招いたのではないだろうか。

                                                (2018年8月16日 記)