(その1)
おやじ小屋と「アイノラ」
私の持ち山に小さな小屋がある。中の広さはせいぜい4畳半程で床も張ってない土間作りの小屋である。杉の間伐材で柱を立て、四隅の壁はトタン板で囲ってある。
南側が小屋の入口である。この扉は、木枠にアクリルの波板を打ち付けた畳1枚程の板を柱に立て掛けてあるだけである。鍵などなく、戸締りは左右の柱に打ち付けた太釘にロープを縛り付ければ良い。
東側と西側の壁には、およそ1メートル四方の木枠にアクリルの波板を張った明り取り用の窓がある。この窓も外の壁に工作をして立て掛けてあるだけなので、窓を開ける時は外に出て、窓の木枠を両手で持ってゴトンと地面に置く。
屋根はトタン葺きである。雨漏りの度にその部分だけ重ねて張ってきたので、今や錆びたトタン板が分厚く何層にもなっている。
本来この小屋は山仕事で使う道具類の物置用なのだが、土間の真ん中に囲炉裏が切ってあって一服できるようになっている。
電気などない。日が暮れてからの小屋の中の明かりは、この囲炉裏の赤い火と低い天井に吊るしてある灯油ランプの小さな炎だけである。
4年前にこの土間の隅に人ひとり横になれる広さのデッキを作った。それまではこの山に来ても小屋の脇にテントを張って寝泊りしていた。しかし、小屋の中で過ごす時間が多くなって来るにつれて、やはり囲炉裏の焚き火を見ながら眠りについてみたいと思うようになった。酔った体で火の始末をして、ふらふらと小屋の外のテントまで歩いて行くのが億劫になったせいもある。
小屋でで寝泊りするようになってからは、この小屋で過ごす夜が、私にとっては至福の時間となった。一人で茶碗酒をすすりながら焚き火の揺らめきをじっと見詰めている時の、何とも言えない穏やかな幸福感。時折薪がパチンと爆ぜて私を少し驚かせたり、炎が一瞬消えた後に立ち昇る煙が目をしばたたかせたりするが、その度に火掻き棒やトングで薪を動かしてやりながら、全く飽きることが無い。まるで自分の魂が外の夜の闇に溶け込んでいくような開放があり、囲炉裏の火で温もった安寧の空気に、全身がどっぷりと包み込まれている平穏さがあった。全くこの小屋の中で過ごす時の手放しの幸福感は何故なのだろか、と我ながらいつも訝しくさえ思うのである。
私はこの山と小屋を譲り受けた時に、小屋の戸口に「おやじ小屋」と書いた木札を打ち付けた。幼い時から少年期を通じて、私はおやじに連れられてこの辺りの山にしょっちゅう来ていたからである。早春の山でゼンマイやワラビを採って汗を流し、残雪の残る山の斜面におやじと並んで座りおにぎりを頬張ったりした懐かしい思い出があった。 眼下の眩しいような新緑と残雪の輝き、遠く春霞に靄っている長岡の町並み、そしてその町並みの外れを銀色に輝く信濃川が北に向かって長く伸びていた。この山の全ての風景こそが、私の脳裏にしっかりと刻み込まれている原風景なのである。
今年のゴールデンウィークの初日(2005年4月29日)、この小屋に向かっていた運転中のラジオで、偶然舘野泉のピアノ演奏を聴いた。
舘野は3年程前に脳溢血で倒れ右半身が利かなくなり、リハビリ後に左手一本で演奏活動を再開したフィンランドに住む68歳のピアニストである。彼が語っていた「リハビリ中に殆ど絶望していた時、左手だけのピアノ曲に出会い、それが自分の音として弾けるようになったとき、一音一音がすごく愛しかった」の言葉通り、ラジオから流れていたその演奏は深い優しさに満ち満ちた、まさに身に染み入るような演奏だった。
そしてゴールデンウィークの最終日、おやじ小屋から帰って来たその日(2005年5月8日)に、今度は藤沢の自宅のテレビで舘野泉の番組を偶然目にした。 フィンランドでの演奏会で倒れてから今日までの、舘野泉の再起を追ったドキュメンタリー番組だった。
ピアニストとして右手が使えなくなった絶望の日々、左手だけで弾けるピアノ曲との出会い、それから、やはり音楽家だった父からDNAとして受け継いだ「自分は何のために音楽を続けるのか」という原点の思想への回帰、そして終に左手のピアニストとしてリサイタルを開くまでに復活した経過を、舘野自身の語りと映像で追ったものだった。
その番組の終り近くで、「アイノラ」と舘野との関わりが映し出されてきた。
「アイノラ」とはフィンランドの国民的音楽家シベリウスが後半生妻と二人で暮した森の中の私邸である。
それは20年近く前、フィンランドにいる舘野が東京の実家から父の死を伝える電話を受け取り、居ても立ってもいられずに妻と息子を連れて出かけて行った場所が、このヘルシンキ郊外の「アイノラ」だったのである。そしてこの時、舘野はこの家の中にあったピアノで、父が大好きだったシベリウスの曲を父への鎮魂曲として弾かせてもらったのである。
「アイノラ」はその後も舘野が何度も訪ねている場所だったが、彼が脳溢血で倒れてからはまだ一度も訪れていなかった。
そして今回、闘病後ようやく訪ねた「アイノラ」で、かつて父への鎮魂曲として両手で弾いたシベリウスの曲を、左手だけでそっとそっと弾き始めるのである。まさに一音一音愛しむように・・・・
左手が最後のキーを叩き終わった。そしてその左手が余韻を引きずりながらゆっくりと頭上高く持ち上げられ、しばらく宙に漂ってから、静かに膝の上に降りて止まった時、舘野が深く息を吐くように呟くのである。
「ありがとう・・・!」
「・・・誰に向かって言っているのか分からないけれど・・・ありがとう・・・!」
「ああっ!」と私は、熱い涙を流した。舘野にとって「アイノラ」は紛れも無く「おやじ小屋」だったのだ。
ここに来ればいつでも懐かしい父に会える。この場所こそが舘野にとっての精神的な原風景だったのだ。シベリウスの曲は父の魂であり「アイノラ」はそれを包み込む父の肉体そのものだったのかも知れない。その大きな存在の父に包まれている安心感と限りない感謝。それがシベリウスを弾き終わった時に思わず口を突いて出た「ありがとう・・・!」だったのだと思った。
おやじ山に行き、「おやじ小屋」の夜を囲炉裏の火を見詰めながら茶碗酒を飲んでいるとき、酔いが回ってか、突然震えるような感情に襲われて小屋の外に飛び出すことがある。そして目の前に霞む、かつておやじやお袋と一緒に歩き回った懐かしい山のシルエットに向かって大声で叫ぶのである。
「ウォー!・・・」
何故か涙が止めどなく流れるが、構わず私は一匹の獣になって咆え続ける。
「ウォー!ウォー!ウォーッ!・・・」
するとどうだろう? どんどんと心が洗われたように澄んで来て、限りない安心感に満たされてくる。
私は闇の山に向かって、また大声で叫ぶ。
「おやじ〜っ! おやじ〜っ!・・・ありがとう!」
(2005年10月30日)