山のパンセ(その58)

俺の山暮らし考

「日記−仙人のつぶやき−」2013年3月10日日記を一部修正して転載しました。

 この日、朝から降っていた雨が10時過ぎにミゾレに変わった。昨日から一転、また冬の到来である。
 今日は殆ど一日中小屋に籠もって、ストーブの前で本を読んだり、間もなく迎える「東日本大震災2周年」のラジオの特集番組を聴いたりして過ごした。

 今日開いていた本は、遠藤ケイ著『裏の山にいます』(山と渓谷社)というもう10年以上前に出版された本で、昔の記憶も朧になって再読してみようと家から持ってきた一冊である。著者はここ長岡市の隣町三条市の出身で、当時は千葉の鋸南町の山麓に自分で建てた丸太小屋に住んで自然暮らしを楽しんでいるという人である。自宅の裏山で採った蔓や竹で生活用具や遊び道具を作ったり、生来の食い意地とかでイモリやヤマカカシ、果てはトンボやナメクジまでも料理して食ってしまうという野人である。

 昔はこんな本に憧れたりしていたのだろうが、今の俺からみると、「ちょっと違うなあ」という感じである。山暮らしの不自由で不便な暮らしを切り返してどう楽しむか、という部分は同じだけど、山暮らしのサバイバル度がいささか過剰で、今読むとちょっと肩が凝るのである。

 それでは我が身を振り返って、俺が町の生活を離れて山暮らしするのは何故だろうか?と考えてみた。 ずっと昔は、もちろん持ち山の手入れの他に、異次元体験のある種のレジャー感覚を楽しんだり、現実の憂さを忘れるためだったりもしたが、今はもうこの感覚は皆無といっていい。そんな甘っちょろい思いでおやじ山に入ったら失礼だ、くらいの気持ちもある。特にこの雪の時期、おやじ小屋で生活していれば、今日のような凍える寒さがあり、何日も山を下りずに食料や好きな酒も乏しくなり、ふっと孤独の淋しさが襲うこともある。しかしよくよく考えれば、これらの辛さや不自由さの一つ一つが、このおやじ小屋で暮らすことの意味そのものなのである。つまり、おやじ山の自然に我が身を預け、寒さも、ひもじさも、淋しさも、全てを受け入れて暮らすことこそが、この山で生活することの意味だと思っている。
 おやじ山で暮らすうちに、どんどん自分が自然に溶け込んでいって、自然と同化してしまうような不思議な感覚を持つようになった。おやじ小屋に独居して、時間と季節の移ろいを目や肌で感じ取り、嵐や風の唸りに耳をそばだて、獣や鳥の鳴き声に心を震わせながら、己の感性がどんどん研ぎ澄まされて行くのを実感する。もしかして、ヒトや獣たちが自然界の中で「生きる」とは、この感覚を指すのではないのか?そして、果たして人間が生きることの意味とは一体どういうことなのだろう?何故、何のために・・・詮ない疑問がどんどん沸き上がってくるが、俺にとって、このおやじ山暮らしがあればこそ、己の心身が今だ真っ当に鍛えられているのだと心から感謝しているのである。

 ストーブの前で長く屈んだ腰を伸ばすために、外に出た。いつしか曇り空も晴れて、赤い夕陽の光線が山菜山を美しく染め上げていた。


(2013年4月8日 一部修正して転載)