その106(2019・12・10) |
中村哲を殺したニッポン 2019年12月5日、旅先で手にした新聞トップに「中村医師 銃撃され死亡」の大見出しに愕然とした。 1946年、福岡県生まれの中村哲が、35年前にパキスタンで医療支援を始め、現在は紛争地のアフガンで灌漑事業に取り組んでいることは、「森のパンセ(その82)現場の声を聴け-医師中村哲の信念」(2016年2月1日 記)で書いた。俺が私淑する最大の人物と言っていい氏の悲報に衝撃を受けるとともに、パンセに書いた氏の言葉「愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか」が彷彿と甦り、中村自身の死によって現実に証明されてしまったことが、俺は悔しく悔しくて仕方がないのだ。 医者の中村がアフガニスタンで灌漑事業に取り組んだのは、現地での記録的な干ばつと水不足で何百万という農民が村を捨て、栄養失調になった子ども達が診療待ちの間に次々と母親の手の中で死んでいく現実に直面したからである。医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。「100の診療所より1本の用水路」と、03年から7年かけて27キロの用水路を掘り、3千haが農地になり、15万人を地元に戻した。そして20年までに1万6500haを潤し、65万人が生活できるようにする計画もほぼメドが立った、と氏がいう矢先の悲報である。 2001年9月の米同時多発テロの翌月、日本の国会から参考人として中村哲が呼ばれて、「当地の事情を考えると、自衛隊のアフガン派遣は有害無益です」と発言し、派遣を急ぐ自民党議員から取り消しを求められたが、断固拒否した。 中村は、現地アフガン東部の治安はこの30年で最悪だが、戦争と混乱の中で自分達が支援を続けられるのは、日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいからだと言う。それは原爆を落とされた廃墟から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入したことがない姿を賞賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっている。その信頼感に助けられて、何度も命拾いしてきた、という信念である。 「しかし・・・」と氏は、2015年9月に成立した安保法制に言及して、「アフガン国民は日本の首相の名前も、安保の関する論議も知らない。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米国に、日本が追随していることだけだ。だから、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。」(安保法制の成立で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援ができるようになれば)「軍隊に守られながら道路工事をしていたトルコやインドの会社が、狙撃されて殉職者を出したように」、「愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と」。そして中村哲はこう言い切るのである。「政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します」 今日(2019年12月10日)の朝刊に、「私たちのヒーロー、守れなくて・・・」の見出しで、昨9日に中村の故郷福岡の空港に戻った遺体に、現地に集まったアフガン人約30名が「守れなくて申し訳ない」と書かれた横断幕を掲げて出迎えた、と記事にあった。違うんじゃないかい!「守れなくて申し訳ない」と詫びるのは、アフガンの人ではなくて、我われ日本人が、ニッポンの総理大臣が、中村哲とアフガニスタンの国民に対して詫びるのが筋ではないか!中村哲が危惧した「この国のあり方」を変えた結果なのだから・・・。 |