山のパンセ(その29)

国家の品格

 「国家の品格」を書いた藤原正彦氏は、作家新田次郎、藤原ていの次男で、かつてアメリカの大学で教鞭をとりイギリスのケンブリッジ大学で暮らしたりした数学者である。まさに国際人の筆頭ともいえる著者が書いた「国家の品格」の内容は、次のようなものである。

先進国の荒廃
 世界の先進国は市場経済を押し進めた結果、それに付随する物質主義や金銭至上主義が世界中を覆い尽くしてしまった。弱肉強食の競争社会や実力主義社会が出現し、最近では勝った者が利益の全部を取っても構わない「ウィナー・テイクス・オール」の市場原理主義や、実体経済とはかけ離れたマネーゲームが世界にはびこっている。その結果、いつも敵に囲まれているという非常に不安定な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまった。
 アメリカが推し進めたグローバリズムの実体は、アメリカ式市場経済とリストラ自由のアメリカ式経営、株主中心主義などだが、これによって経済がすっかり変わってしまった。どこの国でも少数の勝ち組と大多数の負け組みがはっきり分かれ、貧富の差の拡大、失業者と中高年の自殺の急増、規制緩和による安い輸入品で農業に見切りをつける人々が増え、田舎が衰退し田園は急速に荒れてきた。核兵器の拡散や環境破壊、犯罪や家庭崩壊、教育崩壊なども拡がっている。このように先進国はこぞって崩壊しつつあるが、その真因は何でしょう?
 藤原氏はこう結論づけています。
 近代を彩ってきたさまざまなイデオロギーや現代文明の原動力となったのは、西欧的な「論理」や「近代的合理精神」であるが、これらが破綻したからだ、と。

「論理」が破綻する理由
 その「論理」とは、人間社会では実に不確かなものである、という理由を次のように述べています。
 @最も重要なことは論理で説明できない。
 例えば「人を殺してはいけない」ということだって論理では説明しようがなく「駄目なものは駄目」「以上、終わり!」である。そして昔の会津藩の「什の掟」<卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ><弱いものをいじめてはなりませぬ>などの幾つかの掟と、その最後に書かれた<ならぬことはならぬものです>という例を引いて、要するに「問答無用」「いけないことはいけない」と教えているが、これが最も重要である。これらは論理ですべて貫くという欧米の考え方では説明できない。
 A論理とはAならばB、BならばC・・・(A→B→C・・・)で構築されるが、その出発点のAには→はあるが←がない。即ち論理を構築する出発点のAは論理的帰結ではなく常に仮説である。そしてこの仮説を選ぶのは論理ではなく、それを選ぶ人の情緒、つまり論理以前のその人の総合力に依存する。
 その人がどういう親に育てられ、どのような先生や友達に出会い、どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、どのような恋愛を経験し、どのような悲しい別れに出会ってきたか、というもろもろのことが合わさって、その人の情緒力を形成し、理論の出発点Aを選ばせている。
 そして、「論理は重要であるが、出発点を選ぶということはそれ以上に決定的である」と述べています。
 このような「論理」や「合理」に頼りすぎていたことが、現代社会の当面する苦境の真因だが、それではどうしたらよいでしょうか?

「情緒」と「形」の国、日本
 藤原氏は一つの解決策として次のように述べています。「日本人が古来から持つ「情緒」、あるいは伝統に由来する「形」、こうしたものを見直していきましょう。論理の出発点を正しく選ぶために必要なもの、それが日本人の持つ美しい情緒や形である」と。
 そして日本人の持つ情緒や形を次のように説明しています。
 先ず「情緒」です。
 明治から昭和にかけて日本に長く逗留していた外国人の多くは、日本人には世界に類いまれな素晴らしい能力があることを一様に絶賛している。それは「自然に対する繊細な感受性」と、それを源泉とする美しい情緒である。
 秋になって虫の音が聞こえ、枯葉が舞い散り始めると「ああ、もう秋だねえ」と言って目に涙を浮かべる感性や、一年のたった3、4日で潔く散っていく桜の花に、人生を投影し、そこに他の花とは別格の美しさを見出す能力である。ワシントンのポトマック沿いの荒川堤から持っていった桜に、アメリカ人はただ「オー・ワンダフル」と眺めるだけで、そこに儚い人生を投影して長嘆息するようなヒマ人は一人もいないのとの大きな差異である。
 そして、ラフカディオ・ハーンが随筆「虫の演奏家」で「欧米においては稀に見る詩人だけに限られた感性を、日本ではごく普通の庶民が当たり前に持っている」と書いた美しい情緒、ドナルド・キーンが、悠久の自然のなかで移ろいゆくものに美を発見してしまうという「もののあわれ」を、「世界にはない日本人だけが持つ類まれな感性」と驚愕したこと、昭和初期のイギリス大使館夫人、キャサリン・サムソンの「自然への感受性や美を感じる心という点では日本人に勝る国民はないでしょう」と絶賛した言葉などを紹介しています。
 さらに俳句が呼び起こす日本人と欧米人のイメージの違いを2つの芭蕉の句で紹介し、「日本人は自然に対する畏怖心とか、跪く心」を元来持っていて、この情緒が日本人の民族としての謙虚さを生んできた、と言っています。
 2つの芭蕉の句とは、<枯れ枝に 烏の止まりたるや 秋の暮れ>で森本哲郎氏がドイツ人にこれを「枯れ枝に烏が止まっています。秋の暮れ>と訳してやったところ「それで?」と聞かれたという話。欧米人にとってはこれではストーリーが何も始まっていなくて、日本人なら咄嗟に感じる秋の憂愁も何もあったものではないと・・・。
 そしてもう一つは<古池や 蛙飛び込む 水の音>有名な芭蕉の一句です。日本人ならどこかの境内の古池に蛙が一匹「ポチョン」と飛び込む光景を想像する。しかし日本人以外の多くの国では、池の中に「ドバドバドバッ!」と集団で蛙が飛び込む光景を想像するらしい。やはり情緒も何もあったものではないと・・・。
 次に「形」です。
 ある人の行動基準、判断基準となる精神の形、のことで、いわば人間にとっての座標軸をいう。そして藤原氏は、日本人が本来持っていた美しい情緒を育む精神の形としてもう一度「武士道精神」を復活すべきである、と主張しています。その武士道精神とは・・・

「武士道精神」の復活を
 「武士道精神」は鎌倉時代以降、武士のみならず町民、農民まで行き渡った日本人全体の行動基準、道徳基準として機能してきた。その武士道精神の最も中心にあるのは、日本の昔からあった土着の考え方、即ち「卑怯なことはいけない」「大きな者は小さな者をやっつけてはいけない」という「卑怯を憎む心」、そして「弱者、敗者、虐げられた者への思いやり」といった「惻隠の情」である。これに仏教(特に禅宗)や儒教や神道から様々な精神が流れ込んで、「慈愛」「誠実」「忍耐」「正義」「勇気」、あるいは「名誉」や「恥」といった意識も盛り込まれた総体である。
 そして藤原氏は「卑怯を憎む心」を次の例で説明しています。
 ある国の子どもたちは「万引きしないのは法律違反だから」と言う。(こういう子どもは、誰も見ていなければ法律で罰せられないから万引きします)
 そして家族の絆の中にいた日本の子どもなら、万引きなんかしたら、「お天道様が見ている」、「親を泣かせる」、「先祖の顔に泥を塗る」、つまり「それは卑怯である」に通じる考え方をする。
 学校の「いじめ」に対しても、仮にいじめられている側が根性曲がりの大嘘つきだとしても、それは「大勢で一人をいじめることは文句なしに卑怯な行為」である。「そんな根性曲がりの奴なら大勢で制裁していいじゃないか」は欧米の論理の話で、いじめ問題で「学校にカウンセラーやスクール・サイコロジストを置きましょう」と一緒の論理の誤りである。本当にいじめを減らしたいのなら「大勢で一人をやっつけることは卑怯である」「強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である」という論理を超越した人間の本質を教えるべきである。
 そして「美しい情緒と形」がなぜ大事なのか?を6つの理由をあげて説明しています。

なぜ「情緒と形」が大事なのか
 @日本の生み出した「もののあわれ」とか自然への畏怖心、跪く心、懐かしさ、自然への繊細で審美的な感受性といった「美しい情緒」、そして「武士道精神」といった日本独特の「精神の形」は、普遍的な価値があること。
 これを、今や経済的にも軍事的にも大した国でなくなったにもかかわらず、イギリスの言うことには世界中の国が耳を傾ける理由を、「イギリスが生んだ普遍的価値に対して世界の人々が尊敬しているからだ」と例示しています。
 A美しい情緒こそ文化や学問を作り上げていく上で最も大事であること、
 B真の国際人を育てるのは日本人の情緒であって、日本人は日本人のように思い、考え、行動して初めて国際社会の場で価値を持つこと、
 C論理を展開するためには自ら出発点を定めることが必要で、これを選ぶ能力はその人の情緒や形にかかっていること、
 D「人間は偉大なる自然のほんの一部に過ぎない」という日本人の持つ美しい情緒は、欧米の「人間中心主義」という思想からくる「人間の傲慢」を抑制し、謙虚さを教えてくれる。現代人の感じる閉塞感や虚脱感は人間が自然と対立関係にあるという人間中心主義に深く関係している。美しい情緒は、このささくれだった心を癒してくれる。
 E論理や合理は「自己正当化のための便利な道具」として戦争に使われ、これに頼っている限り戦争をやめることが出来ない、と歴史が証明している。日本人が持っている美しい情緒や形こそ、戦争を阻止する有力な手立てとなる。

日本の神聖なる使命
 「卑怯を憎む心」があれば、弱小国を侵攻することをためらいます。
 「惻隠の情」があれば、女、子ども、老人しかいない街に大空襲を加えたり、原爆を落としたりするのをためらいます。(関注*イスラエルによるガザ侵攻を咄嗟に思い出します)
 「美的感受性」があれば、戦争が全てを醜悪にしてしまうことを知っているから、その国の文化、伝統、歴史を粉々にしてしまうようなことをためらいます。
 そして、欧米人は「自然」は人間の幸福のために征服すべき対象であり、宗教や異質の価値観は排除すべきものという「対立」の精神構造を持っている。一方日本人にとって自然は神であり、人間はその一部として一体化している。精神に「対立」が宿る限り、戦争をはじめとする争いは絶え間なく続くが、日本人の美しい情緒の源にある「自然との調和」は戦争廃絶という人類の悲願への鍵となるものである。
 日本人はこれらを世界に発信し、今だ啓(ひら)かれていない欧米人に本質とは何か、を教えなければならない。

国家の品格
 戦後日本は一貫して高い成長を遂げてきた。そしてこの繁栄の代償として失ったものは、あまりにも大きかった。「国家の品格」が格段に失墜したからである。市場経済に代表される、欧米の「論理や合理」に身を売ってしまい、世界に誇るべきわが国古来の「情緒と形」をあっさり忘れてしまい国柄を失ってしまった。
 日本人が持っていた「国柄」とは、例えば室町末期に日本に来たザビエルが書いた「武士は町人より貧しいのに尊敬されている」、即ち貧富と貴賎は無関係、というヨーロッパ人の感覚では特筆すべき日本の美風であり、また江戸末期の識字率が50%という、当時もっとも近代的なロンドンの識字率20%をはるかに凌ぐ識字率世界一の驚異的な日本の底力であり、日本の開国当時、イギリス人たちが江戸の町に来て町人があちこちで本を立ち読みしている姿を目の当たりにして「とてもこの国を植民地にはできない」と諦めさせたり、さらに5〜15世紀の千年の間、西洋文学が「カンタベリー物語」ぐらいしかなかった中で、日本の文学は万葉集、古今集、枕草子、源氏物語、新古今集、方丈記、徒然草・・・と質、量の両面で全ヨーロッパの文学を凌駕していたことなどである。
 そしてそれらの誇るべき国柄が、今の日本からなくなってしまった。どうしたら取り戻せるでしょう?

日本人が目指すべきもの
 先ず日本人それぞれが情緒と形を身につけることである。それが国家の品格となる。品格の高い国に対しては世界は敬意を払い、必ずや真似をしようとする。
 そして品格ある国家の指標、として次の4つの指標をあげています。
 @高い食料自給率を持つことなどの「独立不羈」
 A日本人のDNAとして染み付いている、高い道徳心を保つこと
 B美しい情緒を育む源泉である、美しい田園を保つこと、
 C天才の輩出
 これらは最後を除き、いずれも市場経済によりはびこった金銭至上主義により、現代の日本社会が失いつつあるものばかりです。

世界を救うのは日本人
 そして最後に著者は、かつて駐日フランス大使を務めた詩人ポール・クローデルが、大東亜戦争の帰趨がはっきりした昭和18年にパリで演説した言葉、
 「日本は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」を引き、こう結んでいます。
 「日本は、金銭至上主義を何とも思わない野卑な国々とは一線を画す必要があります。国家の品格をひたすら守ることです。ここ4世紀間ほど世界を支配した欧米の教義は破綻を見せ始めました。世界は途方に暮れています。この中で日本人一人一人が美しい情緒と形を身につけ、品格ある国家を保つことは、日本人として生まれた真の意味であり、人類の責務であると思うのです。この世界を本格的に救えるのは、日本人しかいないと私は思うのです。」

(2009年1月30日 記)