山のパンセ(その63)
 希望の在り処


 2014年3月1日 朝日新聞朝刊 「オピニオン」ー「平和と繁栄」の後でーを読んで

 今日の朝日新聞朝刊「オピニオン」に、米シカゴ大学のノーマ・フィールド名誉教授のインタビュー記事が載っていた。ノーマ・フィールド氏は父は米国人、母は日本人で、第2次大戦直後に東京で生まれ、現在はシカゴに住んでいる66歳の女性である。インタビュアーは朝日新聞ニューヨーク支局長の真鍋弘樹氏。

 ノーマ・フィールド名誉教授の論旨は、前段に現状の政治社会への批判と、その中での特に若者の立場や考え方についての考察があり、後段ではそんな格差にあえぐ今の社会の中で、どう「希望」を見つけるのか、の一つの答えを提示している。

 前段で氏は、「今の若者は、戦後も知らないし、バブルの頃すら知らず、自分たちに戦後民主主義と繁栄の恩恵がもたらされているとは感じられない世代だ」という。そして「経済的に一番弱い立場に置かれている人は、自分の生命さえ犠牲にしなければいけないようになり」「明日を生きるために5年先、10年先の命を顧みられなくなる」(氏はこの現象を『生活と生命の乖離』と呼んでいる)「戦争ができる国」にしようとしている政治家を若い世代が支持するのは、まさに「生活と生命の乖離」であり、これは格差にあえぐ若い世代に限らず、(生活のために地域や自分の存在自体を懸けなければならない)原発を誘致した地域や原発作業員にも当てはまる」
 そして先の都知事選挙で、『強い国』を主張する田母神俊雄氏に投票した若い人たちを、「米国の歴史が証明しているように、若くて生活に困っている層」と分析し、「最初に戦場に出る若者が右傾化を支持する。それは、近代史の忌まわしいパターンの一つだ」と懸念を示している。

 そして後段で氏が語ったことは、そんな若者に対して実に示唆に富む強いメッセージだった。
 先ず先の都知事選挙では、「宇都宮健児氏も若者の支持率が高かった」として、「田母神氏、宇都宮氏の若い支持層は逆の方向を向いている様に見えるけど、実は同じ層から来ているのではないか」と分析し、「希望を託す先が違うだけだ」と言う。そして、「この双方の若者層に、時代のしわ寄せをすべて負わされている「我々」という意識が生まれたら、可能性がある」と若者への期待を示しているのである。
 そして真鍋支局長の「どこに希望を見つけますか」の最後の問いに、ノーマ・フィールド名誉教授はこう答えた。

 「体を使って模索する行為自体が希望だという気がします。いとおしく思う人や譲れない理念があるからこそ、愛情とともに怒りが生まれる。怒りは原動力です。これほど人間を馬鹿にした政治を押し通すなんて放っておけるものか、という怒りです。希望とは外にあって元気づけられるものではなく、主体的に作り上げるものではないですか」

 何やら絶望的な気分になっていた昨今、ノーマ・フィールド氏のこの言葉に身震いする思いである。まだまだやれそうな勇気が湧いて来た。

 しかし真鍋支局長の「取材を終えて」の後記に、「ふと振り返って、ずいぶん遠くに来てしまったことに気付く」とあった。全く同感なのである。俺のガキの頃は、今の世から見れば格段に貧しかったけれども、あの何ともいえない安心感と温もりは、今どこに行ってしまったのだろか、と思う。自然の中で「生活と生命が直結」していたガキの時代と、格差社会の中で「生活と生命の乖離」が進行している今の世とを振り返ってみれば、俺もまた真鍋氏同様「ずいぶん遠くに来てしまった」と長嘆せざるを得ないのである。

   (2014年3月1日  記す)