山のパンセ(その61)

悲しみを感じる旅

1、はじめに−「無関心」という怪物−
 2013年6月19日から7月6日まで、東日本大震災復興支援ボランティア活動で東北地方の被災地に入った。地震と大津波に襲われた宮城県南三陸町に15日間、さらに東京電力福島第一原発事故で避難指示区域となった福島県南相馬市小高区に3日間の計18日間の旅だった。

 あの3・11の凄まじいテレビ映像に身を震わせ、その後繰り返し報道された被災者の姿に何度も涙しながら、「俺も被災地に行って何かをしたい」この思いはずっと持ち続けていたつもりだった。しかし大震災から年月が経つにつれて、世の中から徐々に「被災地」が遠のき、自分の意識の中にもあれこれと屁理屈をつけた「行けない」言い訳が積み重なってきた。
 しかし今年3月初め、まだ雪深い郷里の持ち山に入り、震災2年目の3月11日を迎えて、その山小屋のストーブの前で赤く燃える火を見つめながらじっと聴いたNHKラジオの特集番組<震災から2年〜被災地の明日を信じて>で再び目頭を熱くし、「早く現地に出向かないと!」とじりじりと焦る気持ちが募った。さらにこの後「原発事故で死んだ人は一人もいない」などの政治家発言や、復興庁参事官のツイッターでの被災者中傷問題に激しい憤りを覚えながらも、実はこれらは俺自身を含めてただ傍観者側で被災地と被災者を見ていた者皆んなへの反語的警鐘と捉えるべきではないのか?そう思うと自責の念とやり切れなさで居ても立ってもいられない気持ちになった。
 
 2年3ヶ月が経ち、被災地へ向うには余りにも遅きに失したという後ろめたさがあった。しかし出発前日の新聞に載っていた次の文章が目にとまって、俺の気持ちにドンと活を入れてくれたのだった。

 『大きな理不尽を許してしまうのは、いつも「無関心」という怪物なのである』

2、いざ、南三陸町へ
  6月18日に東北新幹線で仙台まで行き、親戚の家で一泊。翌19日に親戚から借りた車で国道45号線を北上、途中奥松島などの被災地を回って、午後3時に南三陸町のベイサイドアリーナ(市民体育館)の駐車場に設営された「南三陸町災害ボランティアセンター」(通称:ボラセン)に到着した。白い大テントの中に入って「災害ボランティア登録用紙」に必要事項を記入して出し、近くの児童公園に自分のテントを張るための許可証を貰った。
 大型観光バスで大挙被災地入りする企業や団体のボランティアグループはともかく、個人ボランティアの殆どは、マイカーで寝泊りするかテント持参の滞在となる。ここ南三陸町のボラセンでは、ベイサイドアリーナの大駐車場に車が停められ(更にはベイサイドアリーナ館内のシャワーが使えた)、すぐ近くにテントの設営が許された公園もあるので、個人ボランティアにとっては長期滞在が可能な一定の条件が整っていた。

 
3、南三陸町及び大津波被災地の現状
 
南三陸町はいわゆる「平成の大合併」で旧志津川町と旧歌津町が合併して2005年に誕生した町である。志津川湾と伊里前湾に面した一帯はリアス式海岸特有の優れた景観を持ち、南三陸金華山国定公園に指定されている。この町の産業の柱は、志津川湾での牡蠣、ギンザケ、ホタテガイ、ホヤ、ワカメなどの養殖業、そしてかつては伊達藩の高級袴地「仙台平」で名を馳(は)せた江戸時代から続く養蚕と生糸生産の中心地だった。
 震災前の南三陸町の人口は約1万7,500人、今回の地震と津波によって死者、不明者839人を出し、全家屋の6割が壊滅的な被害にあった。そして今なお5,700人が仮設住宅で不自由な生活を余儀なくされているのである。

 南三陸町に入った6月19日、前日東北地方の梅雨入りが発表されたばかりのシトシト雨に、この日のテント設営は諦め車中泊を決め込んでから、旧志津川町の中心部に車を走らせてみた。かつては家々が軒を連ねていただろう現場は剥き出しのコンクリートの土台だけが所々に残って、そのだだっ広い更地に立つと、遥か向うの志津川湾までがすっかり望まれてしまうのである。

 その広大な更地の中に、ポツンと赤錆びた3階建の剥き出しの鉄骨が残っていた。「南三陸町防災対策庁舎」の残骸である。この庁舎の2階にあった放送室から、24歳の女性職員遠藤未希さんが防災無線のマイクを握りしめて「異常な潮の引き方です。高台に逃げてください」と繰り返し繰り返し避難を呼びかけて、自らの命を落としたのである。庁舎内にいた職員30人も屋上に逃げたが、大津波は屋上の床上2mの高さまで達し、無線のアンテナに必死にしがみ付いた10人だけが生き延びたと知らされた。

 南三陸町のボランティア期間中に2日間骨休め休暇を取って、1日は海岸線を南下しながら石巻まで、他の1日は北上して気仙沼から岩手県の陸前高田市、さらに大船渡、釜石まで足を伸ばして被災地を見て回った。

 
 最初の骨休め休暇は、ボランティア7日目の6月26日にとった。朝一のコインランドリーで溜まった洗濯物を洗ってから石巻を目指して車を走らせたのである。
 志津川から南三陸の海岸線に沿って398号線を南下すると北上川の河口に出る。この河口から1.5キロほどの更地になった校舎跡に、教師1名、児童7名が津波で命を失った「石巻市立吉浜小学校閉校記念碑」がある。石碑にはかつての学び舎の写真レリーフと昭和34年の制定から半世紀に渡って歌い継がれてきたこの小学校の校歌が刻まれてあった。

       山と海に恵まれて
       ここ北上の美し郷土
       希望の光 かがやかに       
       学びの窓に風かおる
       われらが吉浜小学校

 そして、さらに河口から4キロ地点の新北上大橋を渡った右岸の袂には真新しい二つの石碑が建てられてあった。一つはかつてのこの地「釜谷の街並み」の風景写真のレリーフ、もう一つが「東日本大震災横死者大川地区四百十八精霊位供養之碑」である。ここにはこう刻まれてあった。

 『2011年3月11日午後2時46分18秒 マグニチュード9.0当地最大震度6強を記録した東北地方太平洋沖地震が発生。この大地震により巨大津波が起こり当大川地区には午後3時37分に到達 老若男女418人が亡くなられた』
 その釜谷の街並みは、今や広大な更地となったまま、震災復旧のダンプカーだけが砂埃を上げて走っていた。

 大橋の袂からすぐの場所に、ポツンと遺されたコンクリート建屋の残骸がある。あの悲劇を生んだ石巻市立大川小学校の跡地、地震後の点呼で校庭に集まっていた児童74名、教師10名の計84名が犠牲となった現場である。
 たくさんの花に囲まれた献花台で手を合わせてから、残骸となった校舎の縁をゆっくりと歩いてみた。何という酷さ、何という悲惨な光景だろうか!その校庭の外れに足洗い場があり、その衝立の壁には東北が生んだ童話作家、宮澤賢二の「銀河鉄道の夜」をモチーフに描いた卒業生の壁絵が遺されていた。コンクリートが崩れて剥き出しの鉄筋がのぞく壁の残り部分には「・・・モマケズ ニモマケズ」と白ペンキで力強く書き遺されていたが、その「雨」にも、「風」にも決して負けなかった元気な子ども等が、大自然の非情な猛威に容赦なく呑み込まれてしまった無念さを思うと、涙が溢れ出て仕方がなかった。


 7月1日に2度目の骨休め休暇を取り、南三陸町から海岸線に沿って国道45号線を北上した。無惨に破壊されたJR気仙沼線の橋脚、港から国道の脇まで500メートルも津波で運ばれた大型漁船などが眼に飛び込んで来て、巨大津波の破壊力とエネルギーに度肝を抜かれてしまった。

 そして岩手県陸前高田市に入り、大型バスで訪れた観光客に混じって「奇跡の一本松」を見た。その近くの河口では重機が入って復興が進んでいるようにも見えたが、踵を返して後背地を眺めれば、やはり辺りは荒涼とした原野の風景だった。

 陸前高田では、持ち山の山仕事から帰って観た池谷薫監督のドキュメンタリー映画「先祖になる」のロケ地にも行ってみた。少し離れた場所から、この映画の主人公佐藤直志氏が「俺はこの地で先祖になる」と決意して真っ先に建てた新築住宅を眺め、映画にも映し出された「気仙成田山」の石段を登って陸前高田の町を望んだ。気仙川沿いに拡がるかつての町並みはだだっ広い草地と化していたが、近くの敷地では直志さんに続けとばかりに新しい電柱が建ち、杉の伐出し丸太が高く積まれていた。そして陸前高田の更地の中には、山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」の応援幟旗が三陸の潮風にはためいていた。

 さらに45号線を北上して大船渡、釜石と見て回ったが、途中の湾や入江では大津波が牙を剥いた無惨な漁港の姿があった。まるで要塞のような巨大なコンクリートの防潮堤がズタズタに折れて、それを見下ろす高台には、岩手県知事名の「浪を砕き 郷を護る」と揮毫した石碑がポツンと残されていた。


4、南三陸町のボランティア活動と忘れ得ぬ人たち
 ボランティア初日の仕事は、旧歌津町の中心地、伊里前地区での瓦礫撤去作業だった。全国から集まって来た個人ボランティア20名と大手通信会社、九州のフィナンシャルグループそれぞれ30名程の社員ボランティア、合計約80名の人海戦術だった。
 作業開始前のオリエンテーションで、全員を前にリーダーの進藤さんから(進藤さんもほぼ毎日仙台から車をとばして通ってくる個人ボランティアである)「自分の身は自分で守り、地震が来たら距離より高さで逃げること」「自分の出したゴミは必ず持ち帰り、瓦礫のゴミに混ぜないこと」「被災者の気持ちを汲んで写真撮影は禁止」などの注意事項があった。そして進藤さんはこうも言って我々に理解を求めた。「被災地の人たちは、現在も多くの方々が悲しみと苦しみの中で仮設住宅暮らしを続けています。いまだ復興住宅も復旧計画さえ満足に出来ていないのです」

 2日目の作業は、大阪の正野さんと二人で寺浜地区の漁師の家(敷地しか残っていなかったが)の草刈り。正野さんは既に震災1年目から2ヶ月ボランティア活動しては1ヶ月間は趣味の登山か自宅に戻り、また2ヶ月間のボランティア活動と、1年の3分の2をボランティア活動で費やす大ベテランだった。
 この日の作業を終えての帰路、正野さんはボラセンの軽トラを運転しながら助手席の俺にこう話しかけた。「ほら、あの丘の中腹に桜の苗木がず〜と植えてあるでしょう。津波があの高さまで襲って、それを忘れないために去年ボランティア仲間で植えたんです。桜が大きく育って花が咲いたら、またみんなでここに集まって花見をしようと話し合ったんです」

 3日目は再び伊里前地区での瓦礫撤去だった。やはり20名程の個人ボランティアと大手清涼飲料水メーカーなどの社員ボランティアの合同チームだった。個人ボランティアは毎朝の朝礼時に受取る黄色いビブスを着用する。そのビブスの背には「おでってさ来ました!」と染め文字が書いてあって、テントのお隣さん、志賀さんに訊いたら、「お手伝いに来ました!」のこの地方の方言だと教えられた。その志賀さんはここ南三陸町でのボランティアは3回目、遙々北海道から2日かけてやって来たと言った。

 やはり毎朝朝礼で顔を合わせる「おでってさ来ました!」仲間が、休憩時間や昼休みに寄り集まるようになる。北海道の志賀さんはもちろんだが、この日は愛知の田村さん親子と神奈川から来たという若い鈴本君とも顔見知りになった。
 田村さんは息子さんと一緒にベイサイドアリーナの駐車場に停めた車の中で寝泊りしながら、1週間前からここに来ていると言った。そして田村さんはこう打ち明けてくれたのである。「息子はこの春中学を卒業したまま家でブラブラしているので、職場から1週間だけ休みを貰って、強引に息子を誘ってここに来ました。家では決して返事もしなかった息子が、ここに来てからボランティアの皆さんから声を掛けられたりして、自分にも少し話しをしてくれるようになりました。それで職場に電話をかけて、もう1週間息子と一緒にここに居ることにしました」真っ黒に日焼けした田村さんの顔がはにかんだように笑った。
 神奈川の鈴本君は、勤めていた会社を辞めたので、ここに来たのだと言った。独身の彼は父親に会社を辞めたことを黙っていて、「ここでのボランティアはおやじへの罪滅ぼしです」とも言っていた。しかし「神奈川に帰ったら、今度は職探しです」、鈴本君は屈託なく明るく笑って言った。

 4日目は、ペシャンコに潰れた倒壊家屋の瓦礫撤去。10人のチームで太い梁や柱、戸板、屋根瓦、家具、布団、生活雑貨などの片付けだったが、それらの中から何冊かのアルバムが出てきた。依頼主のご夫婦にお渡しすると、「あれ〜ッ」と一声叫んだきり、二人で食い入る様にアルバムに見入っていた。

 5日目が漁業支援で漁業生産組合牡蠣工場での「バラシ」作業。養殖棚から引き上げたばかりの牡蠣に付着しているムール貝やフジツボ、青ノリ、テングサ、ゴカイといったもろもろを金具で削ぎ落とす作業である。カキアレルギーでゴカイも大の苦手と言っていた京都から来た若い女性水谷さんが、必死の形相で牡蠣の塊と格闘している姿を見て、何やら胸が締め付けられる思いだった。

 そして6日目は、今度は養蚕農家の「上蔟(じょうぞく)」と呼ばれる仕事だった。この地区でたった1軒になったという養蚕農家の飼育施設に4人のボランティアで入り、この農家のご家族や親族の皆さんと一緒に、終齢の蚕を桑棚から上げて、「蔟(まぶし)」と呼ばれる井桁に組んだ繭部屋に移す作業だった。農家のご主人は、「代々受け継いできた仕事で儲け無しでやってます」と苦笑いしていたが、前日の牡蠣の「バラシ」作業同様、興味津々の思わぬ初体験だった。

 骨休め休暇を取った翌8日目からは、長野の若宮さんとずっとペアを組んだ。若宮さんはプロの林業家で、震災の年から月の殆どを被災地でボランティア活動を続けて来たという人である。二人でエンジン刈払い機を唸らせながら、瓦礫撤去の前線で夏草を刈ったり、公園や仮設住宅周りの草刈りをした。

 若宮さんと二人でチェーンソーを持って個人の敷地内にある杉林の架かり木の処理をやった日である。当日この敷地内では鈴本君など個人ボランティアの数名と震災以来繰り返し南三陸町入りしているという静岡のドライビングスクールの社員グループ、それにカトリック系の国際NGOの日本組織グループなど総勢15名ほどが瓦礫撤去作業に当たっていた。そして終業時間になって若宮さんと二人で敷地内の皆と合流した時、当主のご老人が見えて我々に向ってこう話されて深々と頭を下げたのである。
 「皆さんが遠くからここ南三陸町にお出で下さるだけでも、私どもは勇気づけられ励みになるのに、ここでこうして瓦礫まで拾って下さり(俺たちはそのためにここに来たのに!)本当にありがとうございました。本来なら皆さんに我家に泊っていただき、一杯やってもらうところですが、ご覧の通り何もありません。ただただ言葉でお礼を申し上げるだけでございます」
 実は、ボランティア出発前に密かに誓ったことがある。それは「予断を持たず最後まで真っ白な気持ちでボランティア活動をする」である。しかしこのことを肝に銘じて被災地入りしたつもりでも、日が経つにつれて否応なしに見えてくるものがあった。しかしこの日のこの老人の言葉で、全てが払拭した。そして自分の行動に確信が持て、どんなにか勇気づけられたことか!

 北海道の志賀さんとは児童公園のテントで9日間「お隣さん同士」のお付合いをさせていただいた。そしてバイクで千葉からやってきた荒川さんとは10日間のテント仲間だった。志賀さん、荒川さんとも既に南三陸町のリピーターで、二人からいろんな情報を提供してもらったり、公園の東屋やベンチで共に夕飯を食い、酒を呑んだりと、随分お世話になり楽しい思いをさせてもらった。

 その志賀さんと愛知の田村さん親子がボランティア活動を切り上げて南三陸町を離れる日が来た。前日の夜には2日後にここを離れるという神奈川の鈴本君も呼んで、児童公園の東屋で志賀さん、田村さん親子、鈴本君、そして残留組の荒川さんと俺のお別れパーティを開いた。
 別れの朝、ボラセンの水道で歯磨きを終えて児童公園に戻ると、志賀さんがテントの撤収をしていた。しばらく立ち話をしてから、志賀さんに聞いてみた。
 「志賀さん、いつか志賀さんは『俺は自分のためにボランティアやってるんだ』って言ってたけど、今回は何か得るものがありましたか?」すると志賀さんが、顔を落としながら右手で俺を指差した。「・・・関さんに会えたからね」。志賀さんの手をぎゅっと握ってお礼したけど、本当に嬉しかった。

 そしてこの日は田村さん親子も愛知に帰る日で、俺がベイサイドアリーナの駐車場に車を停めて車中でボラセンの朝礼時間を待っていると、コンコンと窓を叩いて田村さんが紙切れを差し出した。自分と息子さんのフルネームの名前と住所、携帯メールのアドレスが書いてあって、俺の住所も教えてくれという。喜んで書いて渡したが、しばらく田村さんと立ち話しをした。田村さんは昨夜のパーティーのお礼を言った後でこんな事を言った。
 「息子は今まで決して昨晩のように皆の前に出る子どもではなかった。南三陸町に来て志賀さんや関さんに会って声を掛けてもらって心を開いたのだろう。また家に帰れば息子は元の黙んまりに戻ってしまうと思うし、もう息子は再びここに付いて来るとは言わないでしょう。でも今回、ここに居た間だけでも息子と話しができて本当に良かったと思っています」と。「いや昨晩、息子さんは『またここに来たい』と俺にはっきり言いましたよ」「エッ!ホントですか!!」田村さんが涙を落とした。

5、南相馬市小高区と原発被災地の現状  
 7月4日午前9時過ぎに「南三陸町災害ボランティアセンター」にテント設営許可証を返して、ベイサイドアリーナを後にした。やはり15日間、毎朝ここに通っていたと思うと一抹の寂しさがある。そして再度、志津川の旧防災対策庁舎に立ち寄り、献花台の前で手を合わせた。
 それから一路、東京電力福島第一原発事故による避難指示区域から「避難指示解除準備区域」(お役所はなんでこんな小難しい名称をつけるのだろう)に再編された福島県南相馬市の小高区に向った。南三陸町で2日目にペアを組んだ大阪の正野さんから、小高区でのボランティア活動の体験談を聞いたからである。
 
 今、福島、宮城、岩手の東北3県の避難者総数は30万8,000人、そのうち福島県の避難者は15万2,000人と半数を占める。福島第一原発のある大熊町や双葉町はもちろん、隣町浪江町でも町民の約2万人全員が避難生活を余儀なくされている。そして今回入った南相馬市小高区も、昨年4月の避難指示区域の再編で9割以上が「避難指示解除準備区域」になったとは言え、区民約1万1,000人はいまだ避難生活のままである。そして再編から1年3ヶ月が経つが、放射能の除染はまったくの手付かずのままだった。

 「小高老人福祉センター」に設置された「南相馬市災害復旧復興ボランティアセンター」を探しながら、小高の目抜き通りを拝むように車を走らせた。真っ昼間にもかかわらずシーンと静まり返った沈黙の町並みである。
 南相馬市小高区でのボランテア活動は、週2回、火水、土日の2日づつで、対応に出たボラセンの職員に土曜日の活動を申し込み、それまでの間老人福祉センターの駐車場での車中泊許可をお願いした。「実は、小高区の住民同様私たち職員も夜はこの区域から退去しなければなりません。小高区ではまだ日中のみの立ち入りしか許されていないのです」ボラセン職員の答えだった。

 小高区の隣町、原町区にある「南相馬道の駅」の駐車場に移ってボランティア当日まで過ごしたが、その前に福島第一原発の近くまで行けるだけ行ってみることにした。
 「道の駅」を出て小高区に入ると、車の通行はぐっと少なくなる。時折すれ違う車は災害復旧のダンプカーくらいである。さらに車を進めるにつれて、目にする光景が不気味さを帯びてくる。かつては沿道に住宅や店舗が並び、その後背地は青々と稲葉がそよぐ穏やかな水田風景だったであろうが、今や遥か海岸まで見通せる一面の荒野にふてぶてしく夏草が生い繁り、その所々に津波で運ばれた車の残骸と破壊された家屋が打ち捨てられてあった。

 小高区を抜け、原発から10km圏内の浪江町に車を乗り入れると、もうそこはまるでゴーストタウンの様相である。国道から町の中心部へ向う入口はバリケードで塞がれ、ひっそりと静まり返った町中には人っ子一人見当たらない。既に大震災から2年4カ月が経つが、ここでは原発事故による目に見えない災禍が、あの3・11からピタリと時間を止めたまま大きく復旧と復興との前に立ちはだかっているのである。
 福島第一原発から5キロ程の双葉町の検問所で進入を止められて、再び6号線を引き返したが、どんよりと曇った今にも泣き出しそうな夕暮れ時の空の下で、ただただ草むした荒野が果てしなく広がり、その光景は単なる寂寥感とは違ったある種の不気味さを感じさせるものだった。

6、被災者の嘆きと恐怖
 南三陸町の国道45号線脇のガソリンスタンドに立てられたベニヤ板の看板には、白ペンキでこう大書されていた。
    
   津波のバカ!
        でも
   がんばっぺ!!

 この慟哭と悲憤の叫び声と、そして涙ながらにも拳を握り絞めて立ち上がらなければならない被災者の胸の内を思い、何やら粛然としてこの看板の前で立ち尽くした。
 そして南三陸町の瓦礫撤去に伺った漁師の家のご主人から聞いた、「新造したばかりの漁船だけは失いたくないと、大津波の沖合いに船を出して、港に帰れずそのまま何日も海の上で過ごした」という話しや、養蚕農家のご主人からは、「震災の日に自分はもう死んだ者と思っている。今生きてるのは付録の命で、もう何も怖いものは無い」と、繰り返し聞かされた。それらの話に耳を傾け何度も頷きながら、この人たちが味わった底知れぬ嘆きと恐怖に思いを馳せるのである。
 テントを張った南三陸町の児童公園で、1日の活動を終えて荒川さんと二人でベンチで休んでいた時のことである。公園から見える近くの高台の仮設住宅から初老の女性が下りてきて、「これ、食べてけろ・・・」と紙袋を差し出した。ビックリして中を覗き込むと、何と8個もの大きなおにぎりが入っていた。嬉しかった!ただ腹の足しになると思っただけではない。このおにぎりの数と大きさこそ、俺たちがどれだけ被災地に寄り添い悲しみを共有しているかの評価だと思えたからである。

 今回のボランティアの最後に入った南相馬市小高区の民家の瓦礫撤去で、地元出身者だと名のったボランティアの吉井さんが、昼の休憩時間に俺の脇に座ってこう吐くように呟いた。
 「見てみろ、この風景。気味悪がって誰がこんな所に戻りたいって言うもんか。ここで100人もの人が死んだんだよ。こんな瓦礫処理を1軒1軒チマチマやってても焼け石に水だね。国の復興予算が何兆円もあるというなら、ここにも重機を入れてザ〜ッと均して跡形も無くしてもらってからの話しだね。・・・でも、誰か一人、役所がダメだとか何とか言ってもここに住み着いて頑張って生活し始めたら、俺も、俺もってここに住む人が出てくるかも知れないね」
 吉井さんは、「俺はホームレスだ」とも言っていた。実際、道の駅の建屋の軒下で寝袋を被って吉井さんが寝ている姿を見ていた。69歳の吉井さんが自分のふるさとをボロクソにけなしながらも、それなら何故ホームレス生活をしながらここで「チマチマ」とボランテア活動を続けているのか、吉井さんの揺れる心情が痛いほど分かるのである。

 3・11の悲劇から2年4カ月が経ち、南三陸町の被災地では、凄まじい破壊の爪痕にも、微かだが復興の槌音が目と耳と心の中に届いてきた。しかしここ南相馬の小高地区や浪江町の被災地に入って目にした風景は、あの日からピタリと時間が止まったままの、復旧復興からは遥かに遠い道のりの姿だった。この二つの地区の決定的な違いは、偏(ひとえ)に地震と同時発生した原発事故の被害に遇ったか遇わなかったのかの違いである。
 瓦礫撤去に立ち会った小高区のご夫婦は、厚い透明なビニール袋でしっかりと密閉された真新しい品物でさえ、家の中の一切を処分して欲しいと懇願した。放射能汚染の恐怖を身をもって感じた人たちだからである。南三陸町で見たあの津波の看板のように、俺も精一杯の悲しみと怒りとを込めて叫びたい。
 
 「原発のバカ!」

7、終わりに−悲しみを感じる旅−
 今にして思えば、至極当然のことだった。南三陸町と南相馬市小高区、この二つの被災地に入って俺がやれたことは、まさにスズメの涙ほどのことでしかなかった。それなら何故、どこに、俺が18日間東北の被災地でボランティア活動した理由と意味があったのか?
 あの3・11から2年以上が経ち、世の中から被災地と被災者が忘れ去られていく確かな現実があった。そしてその現実を激しく憎みながらも、俺自身の心の中からも「東北」が次第に遠ざかっていくことが自覚できていた。そのことが、俺には怖かったのだ。次第に薄情になっていく自分自身が許せなかったのだと思う。いくら「忘れない」と言葉で言い続けても、己の心の中の風化を押しとどめることはできない。俺の東北への旅は、その「風化を押しとどめる」ための止むに止まれぬ自分のための行為だったのではないか。
 テント村で隣だった北海道の志賀さんは、「俺は自分のためにボランティアやってるんだ」と言っていた。その真意は推し量るべくもないが、繰り返し被災地に足を運んでいる志賀さんのこの言葉の重みをしっかりと受け止めなければならないと思った。
 被災地の現実をこの目で見、被災者の苦しみと悲しみに触れ、そしてそれらを被災者と共に共有できた同量が、俺の心の風化を埋めてくれた量だと思った。

 俺の18日間の「悲しみを感じる旅」が終った。
                
(2013年8月11日 記)  <文中の名前は、「関」以外全て仮名です>

(注)文中の文章と各データについては以下の出典に拠ります。
(1)「大きな理不尽を・・・」朝日新聞6月17日朝刊「天声人語」
(2)震災前の南三陸町の人口:南三陸町ホームページ「人口・世帯数(平成23年分)」<平成23年2月末現在:17,666人>
(3)震災による南三陸町の死者・不明者数:宮城県危機対策課ホームページ<2013年8月9日更新:839人>
(4)南三陸町仮設住宅入居者数:宮城県保健福祉部震災援護室資料<平成25年6月30日現在:5,752人>
(5)福島・宮城・岩手3県の避難者総数と福島県の避難者数:復興庁「全国の避難者等の数」より<2013年4月4日現在:3県総数307,905人、福島県151,874人>
(6)浪江町の人口:平成22年の国政調査20,908人と住民基本台帳に基づく2012年1月末の総務省発表データより
(7)南相馬市小高区の人口:南相馬市ホームページ「小高区の年齢別人口」<平成23年12月31日現在:11,992人>