山のパンセ(その49)

ヒロシマからの祈り、友へ−平和の希求とレクイエム

 2011年夏、折りしも8月15日の終戦の日を含めた前後の11日間を、ここ何年か続けている森林調査のアルバイトで広島で過ごした。調査地域は、当初の山口県境の山中から始まり、現地の民宿旅館を渡り歩いていたが、島根県境の芸北エリアの森に調査地点が移ったお盆休みの時期になって、現地の宿がとれなくなった。それで8月13日から広島市内のホテルに宿替えした。
 
 市内で最初に泊ったホテルが「メルパルク広島」という、まさに原爆ドームが目と鼻の先にあるホテルだった。
 連日35℃を超える猛暑と、ふてぶてしく夏草生い茂る藪をかき分けながらの森林探査も5日目を終えて可なり疲労も溜まってきていたが、翌14日からは早朝起きして連日原爆ドームと平和公園を散歩した。
 平和記念式典の8月6日にはさぞ賑わったと思うが、式典も終えたこの時期の早朝時刻は全く静かなものだった。
 まず、原爆ドームの前に佇んで崩れた煉瓦壁と剥き出しのアームの屋根を見上げる。重い歴史を背負ったとしか言いようのない圧倒的な存在感と迫力である。
 この廃墟の館の前の石碑には、

「・・・爆弾はこの館の直上約600メートルで爆発し、20万をこえる人々の生命が失われ、半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化した。」と刻まれてある。


 そして、元安川の橋を渡って平和公園の中に入った。外国人のアベックのバックパッカーがベンチで丸まって眠っている。平和の池の中で、消されることなく燃え続けている揺れる炎を写真に撮り、それから池の端にある献花台が備えられたコンクリートのアーチの前に立った。このアーチからは一直線に平和の池の赤い炎と原爆ドームが見える。手を合わせ、頭を垂れて瞑目した。
 このアーチの下の石には、次の文章が刻まれている。

 安らかに眠って下さい
    過ちは
 繰返しませぬから


 この文字を何度も目でなぞりながら、熱い涙が止めどもなく零れ落ちてきて仕方がなかった。果たしてこの言葉の意味を、俺達は今でもそれぞれの胸にしっかりと刻み込んでいるだろうか?ここに佇んで目を閉じた時に、思わずハッと、慙愧の念を込めて平和への誓いを新たにするのではないだろうか?とりわけ日本の政治家には、年に何度かここに足を運んで、是非その思いを胸に畳み込んで欲しいと思った。

 今回の旅で、憲法学者である樋口陽一著「いま、憲法は「時代遅れ」か」をカバンに入れて持って来た。改憲が、とりわけ憲法第9条についての是非論が取り沙汰されている昨今、自分でもしっかりこの問題について考えてみようと思ったからである。この広島への旅に出かける前には、沖縄の作家、大城立裕の小説「普天間よ」を読んだ。今86歳になった芥川賞作家が、昭和20年6月23日の沖縄戦終結の日を迎える直前の原体験から紡ぎ出した小説で、沖縄ではいまだに戦争が終わっていないことを隠喩した内容である。

 そして、終戦の日を迎えた8月15日。急斜面の山中で喘ぎながら森林調査のポイントでは珍しい松林で計測作業をしていた。そして正午少し前に、主任調査員のKさんに声を掛けて、二人で荒い息を整えながら長い黙祷をしたのである。そして、今になって思えば、平和への希求と同時に、ある人へのレクイエムを兼ねた祈りだったような気がするのである。

 広島滞在中のある日の朝、「平和大通り」(平和の道)を散歩した。柳原義達氏の「ラ・パンセ」の裸婦像を眺め、悲惨な原爆の災厄から見事に復興を遂げた街には、平和を乗せた市電が走っていた。

 また、ある一日には島根県まで足を伸ばして森林調査をしたが(残念ながら、凄いブッシュに阻まれてポイントに辿り着けなかった)、この日の宿に向う途中に鳴き砂で有名な「琴が浜」に寄った。夕陽が沈む波打ち際で若者4人が戯れていたが、この当たり前の平和こそが実に大切なのだと思った。


  六二三 八六八九八一五  五三に繋げ我ら今生く (西野防人)
 (ロクニイサン ハチロク・ハチキュウ・ハチイチゴ、ゴサンに・・・)

 昨年、朝日歌壇に載った短歌である。(沖縄戦終結の日と新憲法施行の日が前後に詠み込まれています)

 (2011年8月20日 広島から帰宅した翌日 記す)