山のパンセ(その82)

 現場の声を聴け-医師中村哲の信念
 昨年の今日(2015年2月1日)、おやじ小屋の雪掘り(屋根の雪下ろしの長岡方言)で入った雪山のテントの中で、ISに拘束されていたジャーナリスト後藤健二氏殺害の悲報を聞いた。
 そして昨日の新聞で、以前お会いしたことがあるジャーナリストの土井敏邦氏が、(こうした事件が起きるたびに、「なぜわざわざ危険な場所に取材に行くのか」の批判に対して)、「遠く中東や紛争地のことを身近に感じられる素材は、現地で取材しないと手に入らない。日本人が彼らの痛みを共感できる材料を提供するために危険地の取材は必要なのだ」と述べていた。氏はパレスチナなどの紛争地で翻弄される地元民の姿を30年近く追い続けてきた取材経験があり、東日本大震災でも原発事故で全村避難した飯館村にいち早く入って取材活動を開始した大ベテランの国際ジャーナリストである。

 さらに「現場の声」の重さをつくづくと知らされた新聞記事があったと、慌てて取り出して再読したのが、1月30日の朝日新聞「オピニオン」に載ったNGO「ペシャワール会」現地代表 中村哲氏のインタビュー記事である。氏は1946年、福岡生まれの医師で、32年前にパキスタンで医療支援を始め、現在は紛争地のアフガンで灌漑事業に取り組んでいる。
 インタビューの内容をかい摘んで記すと、以下のようになる。

 『(医者がなぜ用水路を引くのか?と尋ねられて) 農業の復興が国造りの最も基礎だからです。アフガニスタンでは記録的な干ばつと水不足で何百万という農民が村を捨て、栄養失調になった子が、診療待ちの間に母親の腕の中で次々に冷たくなりました。医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。「100の診療所より1本の用水路」でした。
 (故郷の)福岡県朝倉市にある226年前に農民が造った斜め堰を手本に03年から7年かけて27キロの用水路を掘り、3千haが農地になり、15万人が地元に戻りました。20年までに1万6500haを潤し、65万人が生活できるようにする計画も、ほぼメドが立ちました。この作業で毎日数百人の地元民が250~350アフガニ(約450~630円)の賃金で職の確保にもなり、思想とは無関係に家族の飢えを救うために命がけの傭兵(何と、米軍の傭兵にも!)の出稼ぎもなくなりました。』
 『(現地の治安を訊かれて) 私たちが活動しているアフガン東部は、この30年で最悪です。地元の人ですら、怖くて移動できないと言います。ただ、我々が灌漑し、農地が戻った地域は安全です。(戦争と混乱の中で約30年も支援を続けられたのは) 日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。戦後は、原爆を落とされた廃墟から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を賞賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです。その信頼感に助けられて、何度も命拾いをしてきました。NGOにしてもJICAにしても、日本の支援には政治的野心がない。見返りを求めないし、市場開拓の先駆けもしない。そういう見方がアフガン社会の隅々に定着しているのです。だから診療所にしろ用水路掘りにしろ、協力してくれる。軍事力が背景にある欧米人が手掛けたら、トラブル続きでうまくいかないでしょう。』
 『(日本の安保法制が転換されて、影響は?の問いに) アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する議論も知りません。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米軍に、日本が追随していることだけです。だから、嫌われるところまではいってないが、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。それに、日本人が嫌われるところまで行っていない理由に、自衛隊が今まで「軍服姿」を見せていないことが大きい。欧米人が街中を歩けば狙撃される可能性があるが、日本人はまだ安心です。(しかし新法制で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められるようになれば) 愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と』
 そして中村哲氏は、最後にこう結んでいる。
 『政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します

 以上である。俺は既に現役のサラリーマンを辞めて10年が経った。あれこれ昔の事を言い出すのは老人になった証拠で悪い癖だ、と陰口をたたかれるのを承知で言うが、35年間のサラリーマン生活で、徹底的に上司から叩き込まれ、自分でも努力した(積り?)の基本スタンスは、「現場の声を聴け」だった。机上の空論ではなく、労を惜しまず現地に出掛け、現場の直視と現地の人達の言葉から解は得られると教えられたのである。
 今、日本とは桁違いの厳しい紛争地で30年間の長きに渡ってひたすら活動を続けている中村医師の重い言葉に、かつての自分の現場主義の浮薄さを赤面しつつ、ほろ苦くも回顧した次第である。

(2016年2月1日 記)
「日記-仙人のつぶやき-(1月31日日記)」を一部修正して転載しました。