森のパンセ   山からのこだま便  その103(2019・3・7)

「福島は語る」ー人間の尊厳とはー

 
 パレスチナを30数年にわたって現地取材を続けているジャーナリストの土井敏邦氏のドキュメンタリー映画「福島は語る」を観た。泣いた!怒った!そして、いろいろと考えさせられた。
 
 この映画は8年前に起きた東京電力福島第一原発事故の被災者たちを、土井氏自らインタビューし、脇に据えたカメラでその被災者一人ひとりの証言と表情をそのまま映像化したものである。被災者の証言を集めた期間は4年に及び、100人を超える証言者の中から選び抜いた14人の証言を”福島の声”として、世に問いかけた作品と言える。
 2時間50分の上映時間は、正直言って惜しいほどあっという間に過ぎた。原発事故による放射能汚染で故郷や住処を追われ、生業を失い、家族離散を強いられ、将来への希望を奪われた被災者たちが、心底に鬱積した思いを福島弁でとつとつと吐露する言葉と表情に、この映画を観ている人たちは、必ずや被災者とともに絶望し、共に悔しがり、共に怒り、そして共に悲憤の涙を流すであろう。

 被災前の楢葉町や避難した会津若松市で、仲間とボランテア活動していることが生きがいだった、と言っていた渡辺洋子さんの証言。(以下、実際は10分かそれ以上長いが、抄録である)

 『会津若松市に避難して来て、お友だちもできたんですけど、その一人から、「毎月10万円ずつ貰ってっぺ?」って言われて「うん」って言ったら、「それ、我われの税金から出てんだよな」って言われたんですね。それでガタガタっとなったんです。2年目ぐらいです。
 その一言がきっかけでガクッときて、いろんな病気を背負っちゃったんですね。こたえましたね。悔しかったです。「だれも好きこのんで、この状態になったわけじゃない」って。』

 福島県に嫁ぎ被災者となった地脇美和さん。夫の仕事で北海道に移ったが、自分は度々福島に来て被災者支援にあたる。(福島県産の食物に対して、風評被害が出ていた)

 『ある時、近所の大きなスーパーに行って、納豆を買おうと思って売り場に行ったんです。今までは地元で作った納豆を買っていたんです。その時も一度は手に取ったんだけど、戻して、北海道の納豆を買ったんです。そしたら、ちょうど売り場にその地元の業者さんが陳列に来てたんです。その人が私に聞こえるか聞こえないかの声でぼそっと、「福島のは選ばないんだ・・・」って。ぼそっと言われたんです。もう、それが・・・申し訳なくって・・・』(地脇さんは止めどもなく涙を流して泣いた)

 避難先の仮設住宅で自治会長をやっている藤島昌治さん。ニコニコと仮設の家々を訪ね回って住民を気遣い、人望があつい。その温厚な藤島さんが書いた詩。

 『特別に何かが 欲しい訳でもありません
  特別に何かをして 欲しいとも言っていません
  「ベッド」を置く スペースが欲しいだけです
  (中略)
  ときどき腰痛に 意地悪されて
  「ベッド」で寝めたらと(※寝られたら、の福島弁か?)
  油汗と溜息を洩らします

  想像できますか 仮に「ベッド」を 四畳半に入れたら
  生活(くらし)は成り立ちません  

  返してくれませんか 震災からこれまでの失われた時間を・・・

  あなた(東京電力)に押しつけられた 賠償金は
  そのままあなたにお返しします
  どうか今までの時間を 返してください
  天が等しく与えてくれた時間を 奪うことが
  あなたは許されているのですか
  (後略)』

 飯舘村で石材加工業(墓石など)を営んでいた杉下初男さん。日焼けした精悍な風貌の偉丈夫である。苦労を重ねた末にようやく経営が軌道に乗り、次男が後を継ぐことに決まった。そこに原発事故が起こり、親子別々の仮設住まいとなった。次男は夢と目標を失い自死する。

 『息子を失い・・・いちばん頼りにしていた息子なんで、いちばん辛かったです。(偉丈夫が、泣く)
 こんな狂った人生になるとは夢にも思わなかった。今まで、涙なんか流した時はねえ。息子が亡くなってからも我慢してた。自分の人生みんな全部、自分の夢が狂ってしまった。俺の人生はこういうふうに生まれたのかなって。
 でも、俺よりまだ不幸な人はいっぱいいんだど、土井さん。津波で子ども2人、3人って死んだ人。こんな話で言ったらば、俺なんか「お前の育て方が悪いんだ」って。事故で亡くしたんではねぇもの。災害で亡くしたんでもねぇもの。』(杉下さんは長いインタビューの間、一度たりとも東電の事を口にしなかった。俺は杉下さんの証言を聴きながら、「あなたじゃない。あなたが悪いんじゃなくて東電なんだ!」と同じく涙をボロボロ流しながら心で叫び続けたが、彼はひたすら自分を責め続けた。)

 福島県三春町に住む武藤類子さん。「福島原発告訴団」の団長をつとめる。以下は武藤さんが話した内容の一部である。

 『わたしは沖縄靖国訴訟原告団の団長をつとめる彫刻家の金城実さんの話が聞きたくて、読谷村のアトリエに伺いました。沖縄には長い苦難の歴史と、それに対する確固たる抵抗の歴史があって、それは私たち福島の行動からしたら成熟度が違います。たくさんのお話がありましたが、金城さんが言ったこの言葉を聞けただけで、「ああ良かった」と、大いに勇気づけられたのです。
 「国を相手にケンカしたって勝てるわけがない。でも俺はやるんだ。やらずにはいられない。それが尊厳だ」と。闘うのは「尊厳」を守るためだと言ったんです。』

 上映が終わって場内に明かりがつき、起ち上がって帰ろうとした時に、土井監督がマイクを持って舞台に立った。(土井さんに会うのはこれで2回目だった)そしてこのドキュメンタリー映画「福島は語る」に込めた気持ちを静かに語り始めた。
 「被災者の”証言”と同時に福島の美しい”風景”」を撮ったこと。(最後のシーンは、李政美が歌う「ああ福島」の挿入歌にのって、原発被災者が失った故郷福島の美しい風景が写し出された)
 さらに、「”問題”ではなく”人間”」を描き伝えたかったこと。
 その意味を土井氏はこう続けた。
 「それは”フクシマ”で言えば、原発事故がもたらした事象やその特殊性だけを伝えるのではなく、それを突き抜けた”人間の普遍的な課題”に迫る言葉を引き出さなければと考えました。例えば「生きるとは何か」「人間の尊厳とは何か」「故郷とは何か」「幸せとは何か」「家族とは・・・」といったテーマです。そこまで迫り切れなければ、「所詮、自分とは関係のない遠い問題」で終わってしまう。”パレスチナ”がそうであるように。」
 
 俺が足を運んだ「新宿K’s cinema」を皮切りに、渋谷、横浜など全国のミニシアターで今後上映が予定されている。是非多くの人に観てもらいたいと思っている。 

(本編は、「2019年3月7日日記」<「福島は語る>の文章を、そのまま転記したものです)