その138(2024・2・22)
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「八月の御所グラウンド」からの回想
(2024年2月15日「日記」の転載) |
あるきっかけで「八月の御所グラウンド」を読んだ。万城目学(まきめまなぶ)の直木賞受賞作品で京都が小説の舞台である。「あるきっかけ」とは、この題名の「御所」に引かれたからである。
あらすじは以下の通りである。
主人公の朽木は彼女にフラれて「地獄の釜」となった8月の京都で悶々と過ごしている。そこに同じ大学生仲間の多聞から草野球のメンバーに強引に誘われる。多聞から借りた3万円の借金のカタに参加させられたのである。多聞もまた祇園のクラブでボーイのアルバイトをしながらママのヒモのような暮らしをしていて学科の単位が取れず、研究室の教授が結成した草野球チームのキャプテンを命じられる。草野球同士のリーグ戦で優勝すれば単位がもらえて卒業できるという教授とのバーター取引である。しかし「8月の京都の暑さに勝てる者などいない」負け組だけが残っている京都で、9人の野球メンバーを揃えるのは至難の業なのである。
京都御所の中にあるグラウンド、通称「御所G」(御所の中にこんな広場があったとは!)でのリーグ戦は、朽木にとってはとんでもなく早い午前6時から始まる。1回戦、多聞チームは9人ぎりぎりのメンバーで何とか勝ち進む。しかし次戦で早くもメンバー不足。不戦敗になりかけた時に、たまたま御所Gに居た朽木と同じゼミの中国人留学生シャオさんがメンバーに入る。このシャオさん(女性)のキャラクターが実に面白い。全くの野球音痴で、打席では突っ立ったままでバットを振らない。しかし相手のピッチャーは女性の出現で上がってしまってシャオさんの尻にデッドボールを喰わせてしまう。野球音痴のシャオさん、足下に転がったボールを自分で拾ってピッチャーに投げ返し、なおもバッターボックスに立っている。ベンチから「シャオさん、デッドボールだから」と声が掛かってもきょとんとした顔でいる。審判に促されてようやくシャオさんはバットを置き、何と三塁へ向かって歩き出すという始末なのである。
2戦も勝って3戦目。京都のクソ暑さにメンバーから次々と欠場の連絡が入って、いよいよ不戦敗かという時に、シャオさんが近くの松の木の下に自転車を止めて見ていた作業服姿の男たちを引き込む。えーちゃん、遠藤君、山本君の3人組だ。何とか寄せ集めの9人が揃って試合が始まった。相手チームが(卑怯にも)元甲子園球児や社会人野球の経験者を入れてきたが多聞チームのピッチャーが好投して0-0と善戦。最終盤のシャオさんの打席で、振らないとみた相手のピッチャーが緩い玉でストライクを取りに来た。初めてバットを振ったシャオさんの打球が前進守備の内野の脇をコロコロと抜いて、塁に出ていた選手が生還。シャオさんはベンチからの「戻れ、戻れ」の声の意味も分からずに2塁までよたよたジョギングして、待ち構えていた相手に悠々タッチされてアウト。しかし虎の子の1点が入った。最終回の裏。相手チームがツーアウトながら2,3塁と塁に出て一発逆転のピンチでピッチャーが故障した。皆ズブの素人でピッチャー交代を拒んでいる時にえーちゃんに指名がかかる。相手は4番バッター、元甲子園球児である。えーちゃんの投球に4番の相手は守るというよりはただ立っているだけのシャオさんのセカンドが穴と見て狙いを定める。しかし2球とも強打の1塁側ファールでツーストライクとなる。そしてえーちゃんが、それまでのサイドスローの投球フォームからオーバースローのモーションに変えた決め球に全員が息を飲んだ。バッターは完全に振り遅れて空振り。玉はキャッチャーのミットを弾き返し、バックネットに強烈な金属音を響かせてコロコロとベースにまで戻ってきた。余りの球速に打席のバッターは振り逃げすることも忘れて呆然と立ち尽くしたままアウトとなった。試合終了!シャオさんの一振りで虎の子の1点を守り切って勝ってしまった。
ここからがミステリーである。
実はえーちゃんは、その年のプロ野球で最も活躍した投手にあげる賞、沢村賞のその伝説の名投手沢村栄治本人だった。沢村は京都での在学中、甲子園に3度出場した。その沢村栄治が死後80年経って「御所G」に現れたのである。彼は3度目の軍の招集で1944年フィリピンに向かう途中で戦死した。27歳だった。そして遠藤君(本名:遠藤三四二)は1943年10月に京都大学法学部に入学した。戦局の悪化に伴い少しでも多くの新兵が欲しい政府が法律を変更して、大学生からの徴兵と9月卒業、10月入学を法律で定めた。彼は僅か2ヶ月の学生生活のあと軍の招集を受け、2万5千人が参加したという「雨の神宮外苑の学徒出陣式」とは別に、当時快晴だった京都大学農学部グランドで行われた「出陣学徒壮行式」の会場で、1800人の学生たちと共に参加して出兵。1944年に21歳で北支で戦死した。山本君(本名:山本誠一)も大学入学早々に軍の招集を受け、彼も北支で戦死した。19歳の若さである。そして3人ともが、それから80年経って、ただただ野球をやりたくてお盆を迎えたこの京都に現れたのだ。
4戦目を控えて、朽木と多聞は京都5山の送り火の一つ、大文字山が見える神社の階段に腰を下ろして火が点けられた「大」の字の送り火を見ていた。盆が終わって、えーちゃんたちはもう御所Gには現れないだろうと思いながら・・・。
「みんな−−−−,生きたかっただろうなあ」 それから多聞が言う。
「なあ、朽木。俺たち、ちゃんと生きてるか?」 しばらくして朽木が答える。
「それが−−−−俺たちとの約束だろう」
小説では、主人公の朽木も多聞も22歳の学生。ちょうど俺が京都の下宿で暮らしていた時と同じ年齢である。だからこの小説に出てくる京都御所の砂利道も毎日のように俺は通っていたし、百万遍という場所も、ようやく家からの仕送りが届いて、この辻角にあった2階の喫茶店に入ってホッとした時間を過ごしたりした。それからまた、この小説に出てくる今出川通りを歩いて、朽木が彼女にフラれたという賀茂大橋を毎日のように渡って・・・。今出川通りを挟んで本館と反対側にあった農学部の敷地内にも1度か2度かこっそりと入った。ここで「出陣学徒壮行式」があったとは、この小説で初めて知った。そして大文字山の「大」の送り火も、下宿近くから眺めていた。当時は、どんな心境だったのだろうか・・・。「お盆くらいは家に帰ってこい」というおやじの手紙には応えず、盆も、そして正月もずっと京都に居座ったままだった。
あえて忘れようとしていた56年前の京都が、「八月の御所グラウンド」に出てくる懐かしい地名から思い起こされて、感慨ひとしおである。
かつての今出川通り 賀茂大橋から鴨川を望む かつての百万遍
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