(その52)
文化を繋ぐ風景
2012年1月、昨年に引き続いて山口県での2度目の森林調査の仕事で、今回も周防や長州の山々を巡る旅ができた。そして、そこで目にした山間地の風景や宿への帰りに立ち寄った町並みの景色から、つくづく考えさせられた事があった。そんな心の断片を綴ってみたいと思う。
「山口県は石垣文化の国である」、と言いたい。2012年1月19日から27日までの9日間、森林調査の仕事で周防から長門の国1,000qをニッサン「X−TRAIL」を駆って走り回った独断的感想である。
その石垣の美しさに初めて気が付いたのは、仕事開始から3日目。早朝の湯野温泉を出発して、相棒のKさんがスマホに仕込んだ「ワツラブ」(what
is love をカタカナ英語にしたミュージシャングループ。どんな曲でも凄いアップテンポで歌うのだ)の曲を耳にしながら闘争心をかき立てて、防府市佐波川流域の片地山に向けて山道を走っていた時である。
「おお〜!」と思わず声を上げてKさんに車を停めてもらい、急いでデジカメ片手にドアを開けて写真を撮った。
右手の山の斜面に、敷地を見事な石垣で囲んだ農家が見える。そしてその庭先の段々畑と手前に広がる棚田も、美しい石積みの畦である。
その後の旅では意識して石垣風景に目を向けるようになったが、山口市の「重源の郷」や鳴滝、黒河内山、宇部の吉部、美祢の川東、黒河原と枚挙に暇が無いほどにいたる所で見事な石積みの技を見ることができた。それは農家の庭を囲う石垣であったり、棚田の畦の石積みであったり、集落の中の小路の土留用石垣だったり、さらには小川に架かる小さな石橋、山奥の植林地の地ごしらえの石棚だったりと、その一つひとつの見事な石組みの技にすっかり魅了されてしまった。
そして気付けば、岩国の名勝「錦帯橋」の橋脚も石組みである。その橋台は1674年、岩国領主吉川広嘉の命で建造されてから昭和期までの250年以上、度重なる洪水にも流出されず堅固に5連のアーチ型木造橋を守り抜いてきた。それはまさに、県内広く行き渡っている農村の石垣文化、百姓の技がこの名奇橋に生かされ文化遺産として残ったのだと言えるのではないか。
しかし、美しい石垣が残る村々や植林地を目にしてやはり感じるのは、過疎化で荒廃した農村の姿である。崩れかけた廃屋があり、背丈の高い枯れ草が寒風に靡く田圃があり、そこに残るガッシリとした美しい石垣が目立つだけに、余計に口惜しく寂しい思いがするのである。農村や田畑が消えることは、そこに築かれた見事な先人の技と素晴らしい文化も同時に消滅することである。
1月22日に作家宇野千代の故郷、岩国に泊り、翌23日には一気に西に車を駆って、童謡詩人金子みすゞのふるさと、長門市仙崎に立ち寄った。岩国の宿「半月庵」は<おはんの宿>と銘打ってロビーには作家の直筆原稿が展示されていた。そして仙崎の通称「みすゞ通り」をしばし歩き、金子みすゞが詩作した(一軒目の)乾物屋や(三軒目の)酒屋や、(四軒目の)本屋の町並みを観、それからみすゞが<大漁だ>と詠んだ仙崎の輝く海を眺めた。そしてつくづく感じたことは、二人の文学が、ふるさとの自然や町の佇まい、そしてそこで暮らす市井の人々をこよなく愛して、詩や文学が生み出されたという、いわば当然の実感だった。
そしてまた、これらのかけがえのない文学を生み出した古い町並みが、何やらひっそりと沈んで見えるのである。農村が廃屋となり長年積み重ねられた石垣文化が打ち捨てられ、古い町並は経済成長のうねりに呑み込まれて一軒、また一軒と廃れ、詩や文学を生み出した町の灯が消えかけている。
今やあちこちの街の郊外に大型店舗が建ち並び、巨大な看板と煌々とした照明で賑わいを見せているが、果たしてこんな街並みから文学が生まれるだろうか?歴史に残る文化遺産が生み出せるのだろうか?
棚田に美しく積まれた石垣や金子みすゞが目にした町や海の風景。それは日本人が古くから営々と築いてきた文化そのものである。その文化に接することによって、人は己の抱えている悩みや苦しみ、業といった如何ともしがたい苦しみを癒してきたのだと思う。
振り返れば、人間は豊かさや便利さを求めて経済的発展と文明とを作って来たが、世界の先進国がこぞって成長の限界に突き当たり、フランスの経済学者ダニエル・コーエンが示したように「経済成長という麻薬によって人間は『もっと、もっと』を求めてきたが、豊かになることは幸せになったことにならない。人が幸せを感じるのは成長が加速する時であり、それが止れば消えてしまう」を実感として受け止め始めている。
さらに福島第一原発事故が引き起こした災厄によって、文明の進化は決して人間を幸せにするものではなかったということにも気付かされた。
ダニエル・コーエンはまた、「21世紀は必ずしも生きていくうえで楽しい時代にはならない。人間の本質について新たな見方や価値観ができつつあるのだと思う」とも言ったが、周防の国の美しい農村風景に接し長門の国の何とも懐かしい町並みを歩きながら、我々は果たしてどこに行き着けば良いのだろうか、と考えさせられたのである。
(2012年1月30日 記)