山のパンセ(その92)

 8月の歌 (2017年8月18日「日記」より)                           

 
八一と 八六八九八一五 八二九の七十二年 (百人)

 
もう何年か前になるが、新聞の短歌欄に載った西野さんという方の歌をもじって即興で作った自作短歌である。

 戦後72年目の8月が終わろうとしている。この夏はおやじ山の他に、長岡の実家にもいろいろ用事が出来て、何度か藤沢の自宅と長岡を往復した。

 上の句「八一」は昭和20年8月1日の長岡大空襲の意味である。この日の午後10時30分、米軍機B29の爆撃によって長岡市街地の8割が焼け野原となり、1486人の命が失われた。毎年長岡では、8月1日になると市内を流れる柿川で犠牲者を悼む灯篭流しが行われ、翌2日、3日と花火が打ち上げられる。今年103万人が訪れたという「長岡花火」は、長岡空襲で亡くなった人への慰霊と恒久平和への願いの花火なのである。
 今年の8月2日には、実家の台所で、久々に長兄と酒を呑みながら(兄貴はすっかり酒は弱くなってしまったが)長岡花火のテレビ中継を観た。家の外からは、中継画面に少し遅れて「ド~ン、ド~ン」と花火の音が台所まで響いて来ていた。そしてずっと昔、柿川近くの旭町の鉄道官舎に住んでいた頃、家族揃って灯篭流しに行ったことなどを兄と懐かしく話し合った。

 中の句の「八六」は広島原爆の日、「八九」は長崎原爆、そして「八一五」は昭和20年8月15日の終戦の日である。
 8月6日も実家の居間で「広島平和記念式典」のテレビ中継を観、原爆投下の8時15分には立ち上がって黙祷をささげた。この朝のNHKテレビは、「原爆の絵が語るヒロシマ」と題して悲惨な当時を伝えていたが、最後に映し出された「助けてあげられなくてごめんなさい」の絵には、思わず呻き声を堪えず泣いてしまった。

 長崎の原爆投下は、昭和20年8月9日11時2分である。田上長崎市長は「平和宣言」で、今年7月に国連で採択された核兵器禁止条約の交渉にすら参加しない日本政府の姿勢を、「被爆地は到底理解できない」と批判し、続いて「平和への誓い」で88歳の深堀好敏さんは、原爆で当時18歳の姉を失い、母と弟の3人で遺体を荼毘に付した悲惨な体験を語ったあと、「核は人類と共存できない」「福島第一原発事故後も次々と原発が再稼働している」と批判し、「平和憲法を国是として復興したわが国が、アジアや世界から集めた尊敬と信頼を失ってはならない」と訴えた。さらに長崎平和祈念式典後の安倍総理と被爆者との面会の席上で、被爆者が長年積み重ねて来た努力がようやく形になってこの7月に「核兵器禁止条約」の国連採択が実現したにもかかわらず、日本政府の不参加や否定的な態度に、被爆者代表の川野浩一さんから、「あなたはどこの国の総理ですか」と痛烈な批判も出たと報道で知った。

 そして8月15日、今年72年目の終戦記念日は、おやじ山から帰った藤沢の自宅で迎えた。テレビで政府主催の記念式典は観ていたが、遠くから防災無線のスピーカーで黙祷の合図があったので、それに合わせて目を瞑った。

 下の句の「八二九」は昭和20年8月29日の俺の誕生日である。今年、戦後の年数と同じ72年を何とか生かされて現在に至った。昭和史に詳しい専門家によれば、安倍政権下の今の日本は、太平洋戦争へと突き進んだ戦前の空気に似ているという。どうか「戦後」が72年から100年、200年、いやそれ以上へと続いて欲しい。今年の夏の、変わらないふるさと越後の風景のように・・・・


ハサギの稲田の向こうに信濃川の鉄橋(JR信越線)    ガキの頃、この川で泳いだ(護岸工事など無く亀がいたり)

               田圃と、畑と、夏雲と・・・「ああ~、いいなあ~」     

実家の裏庭(昔はこの踏切で煙り吐くD51の巨体を見送った)川で遊ぶカルガモ家族(昔なら見つけ次第獲って喰った)

                                         (2017年8月18日 記)

(このパンセは<「日記」2017年8月18日>をそのまま転記しました。)