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2024年3月2日(土)曇り
「天声人語」からの回想
 今日の「天声人語」を読んで、かつて記事に書いてあった四国のこの地を訪れたことを思い出した。10年日記で調べてみると、2018年度の愛媛と高知県での森林調査の際(2018年度は四国の出張が何回かあった)、12月11日に近永駅のある鬼北町に立寄ったとあった。
 以下、今日の「天声人語」の抄録である。

『写真は、過去をよみがえらせる。たとえ白黒であっても、まるでポッと火がついたように、思い出の場面が動き出す▲愛媛県と高知県の山あいを走るJR予土線を近永駅で降り、目の前の細い道を進むと、小さな商店街の一角に「近永カメラ」はある。店先には、昔日の町の写真が何枚も飾られている。近所のひとたちが持ち寄ったものだ▲祭りで神輿をかつぐ若者が写っている。地元の学校の野球の試合で、楽しそうに応援をする親たちの笑顔もある▲藁の上に素足で座った幼い女の子は、顔をクシャクシャにし、体いっぱいで笑っている。かつてはたくさん、ひとがいた。「大きな道ができ、便利になって、でも、それで流れが変わりました」▲開通から50年を迎えた予土線は、100円の収入を得るのに、1718円の経費がかかる赤字鉄道線路である▲地方の町が、どんどん小さくなっていく。新幹線は延びても、ローカル線はどんどん廃れていく。私たちは、どこかで、目指すべき大きな方向を間違えたのではないだろうか。笑顔がならぶ写真を見ながら、しばし黙考す。』

 この日相棒のKさんと山中での2カ所の調査を終えて、近永駅のある鬼北町に下った。生憎の空模様だったが、途中の里山の風景には心を奪われた。営々として築きあげたであろう見事な石垣。小さな社の境内に飾られた圧倒的なご神木。町外れの道の駅で出会った、特産の「柚」と全国自治体唯一「鬼」がつく地名、そして愛媛の「媛」にちなんで「柚鬼媛」と名付けられた実に色っぽい「縁結び、安産祈願」の神様など記憶に留めた場所の一つである。


 調査地から四国の山並みを望む 鬼北町の里山   見事な石垣風景

         何とも色っぽい「柚鬼媛」   樹齢500年の御神木(河内宮)
2024年3月3日(日)晴れ
人類の足跡の検証(過去の間違いを認め正しい道へ)
 以下は「森のパンセ-その131」で既にアップした霊長類学者(京都大学前学長)山極寿一氏の論考である。

<人類はどこで間違えたのか(抄録)
 700万年前、人類の祖先はアフリカの熱帯雨林から徐々に草原へと進出した。それは強かったからではなく、弱かったから地球の寒冷化で縮小する森林に住み続けることができなかったからだ。しかし他の動物と比べ速力も敏捷性でも劣る二足歩行は、自由になった手で食物を運び、安全な場所で仲間と共食し人類の生存を助けた。
 50万年前、それまでは他の肉食動物に「狩られる」存在だった人類は、狩猟を始めた。それで互いの身を守るために助け合い、肉食動物の脅威を防ぐことが人類の社会力を育てた。また共食や共同の子育ては共感力の強化に役立ち、歌や踊りなどのコミュニケーションはその触媒となった。つまり、人類の大半は「弱みを強みに変える」ことによって発展してきた。

 7万~10万年前、言葉が登場した。人間は言葉によって世界を切り分け、物語の主人公になり、環境を対象化して世界を支配するようになった。
 1万2千年前、農耕・牧畜という食料生産が始まった。人間を主役にして環境を作り替える考えが主流になったからだ。やがて余剰の食糧を生み出し、人口を増大させる道を開いた。
 しかし、定住と所有という農耕・牧畜社会の原則は多くの争いを引き起こし、やがて支配層や君主を生み出し、大規模な戦争につなげる温床となった。
 3千~5千年前、戦争で死亡する人の割合は最大となり、下克上の世で生き延びるためにキリスト教や仏教などの世界宗教が生まれた。この時期に人間は、現世の苦しみはあの世で救済されるという考えを抱くようになった。しかしこれは、人類が長い進化の過程で発達させてきた共感力を敵意として利用する道を開いた。人々が自己犠牲をいとわずに助け合うために、支配層は社会の外に共通の敵を作って団結する仕組みを作ったのだ。これは今でも戦争の基本的な考え方として定着している。
 産業革命(*18世紀後半~19世紀前半)は、それまで家畜の力(*馬力など)に頼ってきた人間の暮らしを、人工の動力によって拡大することに成功した。農村で季節の変化に従って生きてきた人々は都市に集められ、自然界にない製品を作り出し、支配層だけでなく一般の人々も過剰に物を欲するようになった。それが無限の経済成長を信じる思想を育て、海外への領土進出となり、自国にない産物を略奪する行為を正当化した。

 人類が成功者として歩んできたという思想の裏に、実は間違えた道筋をたどった歴史が隠されている。気球環境が限界に達した今、人間の足跡を検証し、正しい道へと社会を向かわせなければならない。過去の間違いを認め、共感力と科学技術を賢く使う方策を立てるべきだ。個人の欲求や能力を高めることよりも、ともに生きることに重きをおく。管理された時間から心身を解放し、自然の時間に沿った暮らしをデザインする。シェアとコモンズ(共有財産)を増やして共助の社会を目指すことが肝要だ。それは長い進化の歴史を通じて人類が追い求めてきた平等社会の原則だ。
 間違いを認めず、いたずらに武力を強化して、再び戦争の道を歩むことだけは決してあってはならない。』
2024年3月8日(金)晴れ
ほんとうの、春へ。
 今朝の新聞広告の美しい写真に癒された。JR東日本の「TOHOKU」キャンペーン広告で、写真の脇に桜色のゴチック体文字で、ほんとうの、春へ。とあった。3・11から13年。東北が「ほんとうの、春へ」と向かうことを祈る。

 今週はすっかり冬に戻った越後の3月。来週からはいくらか温くなりそうである。そろそろおやじ山に入る準備でも・・・。

 
2024年3月9日(土)晴れ
「ほんとうの、春へ」その2
 今日の朝日川柳に次の句があった。

 十三年灯(あか)りの点(つ)かぬ家数多(あまた)  (湯町 潤)

 13年経っても、まだ東北の「ほんとうの、春」は遠いということだろうか・・・。
 イギリスの抒情詩人シェリーは、こう謳ったではないか。
 If winter comes,can spring be far behind?(冬来たりなば春遠からじ)と。
2024年3月13日(水)晴れ
映画「オッペンハイマー」クリストファー・ノーラン監督の問い、とは・・・
 昨日(3月12日)、NHKクローズアップ現代のインタビュー放送を視聴した。原子爆弾を開発したアメリカの科学者の葛藤を描いた「オッペンハイマー」でアカデミー賞最多7部門を受賞した映画監督クリストファー・ノーランへのインタビュー(2年余の交渉で実現)である。インタビュアーはクロ現の桑野真幌アナ。以下はクリストファー・ノーラン監督の言葉である。
 
 「一つの作品を完成させたとき、”問い”が必ず残る。(私の映画は)次の作品で先ずそれを拾い上げるところから始まります。」
 「前作「テネット」では、”KNOWLEDGE CHENGES THINGS'-N (知識が物事を変えてしまう)。つまり、一度知ったら元に戻れないという知識の危うさがテーマでした。そして「テネット」を作り終えたときの”問い”とは、”核をこの世にもたらし、世界を一変させてしまったのは何者なのか”でした。」

 「私がこの映画で一番見せたかったのは、オッペンハイマーが”その先を知っていたこと”。つまり核が世界に解き放たれることで、多くの負の結果をもたらすと見抜いていました。そのオッペンハイマーのジレンマに観客を巻き込もうとしたのです。つまりオッペンハイマーの人生をそのまま観客に追体験してもらうことに挑戦しました。」

 「映画は絶望感で終わります。それは物語には必要なことでした。しかし核の危機が迫る今、現実社会では絶望感で終わらせてはいけない。」
 「核の脅威をできる限り減らすよう政府に常に圧力をかけ、私たちは危険性を常に認識することが必要です。」
 「この映画を体験することで、核兵器の脅威について若者たちに感心をもってもられると信じています。」
 以上である。

 この映画の一シーンで、(ヒロシマ・ナガサキに)原爆投下後、アメリカ社会から拍手喝采で迎えられたオッペンハイマーの実録画像の中に、突然”被爆者とみられる若者の姿”に変わり、オッペンハイマーの心象風景が映り出される。
 20年来、クリストファー・ノーラン監督作品を論評してきた映画評論家のトム・ショーンさんは、このシーンを以下のように解説した。

 「重要なのは、顔にやけどを負った被害者を演じたのはノーラン監督の娘だということ。ノーラン監督は核兵器の破壊力を自分事として捉えたのだと思います。」

 この解説で、一気にクリストファー・ノーランさんのファンになってしまった。日本公開の3月29日が待たれる。しかし、グズグズしていたおやじ山行きは、明日早朝発つことにした。観れるかなあ?