最後のページは<3月23日

2025年3月21日(金)晴れ
自分の体のなかの自然
 3月19日付朝日新聞「折々の言葉」(鷲田清一)に以下の文が載っていた。
『海という自然を信じるとともに、もう一つの自然である自分の体のなかの自然をも信頼しているのである。川島秀一「海と生きる作法から」』
 そして鷲田氏はこう解説していた。『東北の三陸の漁師らは、「海で」暮らすというより、海に棲む生き物とともに自分もその一部として「海と」生活してきたと、民俗学者は言う。「海」という大きな生き物に恵みをもらい、かつ激しく翻弄されつつも、つねにそれを凝視し、手なずけ、その懐深くで生きてきたところに、人びとの心の豊かさもあると。』

 俺が20年にもなる長い山暮らしの中で感じてきたことが、そっくりそのままこの文章の中にあった。「海」を「山」に置き換えれば、まさに俺もそうだったと深く、深く首是するのである。
 「ああ、早く山にはいりたいなあ」とつくづく思う。しかし今年からはそうも行かない事情がある。人生いろいろ、仕方ないこともあるさと・・・。
2025年3月23日(日)晴れ
戦死者の数とは-命の人称性を問う-
 昨夜10時から放映された「NHKスペシャルー未完のバトン」を何気なく視聴していた。その中でゲスト出演していたヒコロヒーの一言に「あッ!」と胸を打たれた。彼女はこう言ったのである。

『・・・戦争で(例えば)2万人死んだ、のではなく、「一人の死が2万件あった」ということですね』

 最近の報道で例えれば、ウクライナでの戦死者は4万5,100人(3月4日のゼレンスキー大統領の発言から)、ウクライナ民間人の犠牲者は1万1,500人以上。一方ガザでの死者は7万人超と推定。(ロンドン大学大学院発表。死者の遺体数で発表するパレスチナ保健省は4万5,885人)
 つまりウクライナでは「一人の死が4万5,100件」。ガザでは「一人の死が7万件」あったと言うことなのである。

 俺が信州上田にある戦没画学生のギャラリー「無言館」に何回か足を運んでいる意味は、この認識をしっかりと自らの胸に刻むためである。学徒出陣を迎えた画学生が、出征前のつかのまの時間で描いた、自分にとってはかけがえのない「妻」(中村萬平<霜子>)や、「妹」(太田章<和子の像>や、「故郷の風景」(井沢洋<道>の絵の前に立てば、戦争とはこの生身の人間一人ひとりのアイデンティティーと尊厳とを抹殺する残虐行為そのものなのだとつくづく思い知らされる。

 先に「森のパンセ」で書いたノンフィクション作家柳田邦男氏の言葉を再びここに書き留めておく。
『戦争の本質をとらえるには命の人称性の視点が重要です。つまり、自分の生と死は一人称。愛する人の死は二人称というように。そして戦争こそが究極の無人称であり、その本質を一人ひとりの生身の人間のアイデンティティーと尊厳を奪う悲惨と残酷さでとらえ直すことが大事なのです』