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2024年7月21日(日)晴れ(猛暑日)
山恋し
 
 
星を見て風の音聞く山小屋でひとり酒飲み眠る贅沢  (三郷市)木村 義熙

 今朝の朝日歌壇に載った短歌である。「ああ、早くおやじ山に帰りたいなあ」とつくづく思う。昨年の夏の山入りは7月末と遅かったが、いつもの年なら既におやじ山に入り、この歌のように「星を見て、風の音を聞いて」、さらに飛び交うホタルの光を肴に、一人酒を飲んでいる頃である。

 先日Kさんから送られてきた写真には、風の小屋の周りでいっぱいヤマユリが咲いていた。そしておやじ池ではクロサンショウウオかモリアオガエルか(その両方か)の稚魚かオタマジャクシがのんびり泳いでいた。「ああ、早く風の小屋で過ごしたいなあ」とまた長嘆息をつく。

 先月23日に自宅に帰ってきてから、次から次と悩み事が出てきて、まさに諸事多難。しばらく山行きはできそうにない。いくつになっても悠々自適とは行かないものだと思い知る。梅雨明け3日後の猛暑の最中で、ひたすらおやじ山を恋う今日この頃である。
2024年7月26日(金)晴れ
ラジオ体操の歌
 子どもたちの夏休みが始まり、朝6時半からのNHKのラジオ体操が「夏期巡回ラジオ体操・みんなの体操会」となり、全国各地から生放送されている。それぞれの地方の紹介が手短にあって、これもまた楽しみである。

 おやじ山に居る時には、この時間になると小屋の外に飛び出て、先ず山菜山に向かって「おはようございま~す!」と大声で挨拶してから、音楽に合わせてラジオ体操する。ラジオ体操一番と二番の間の「首の運動」で、コリコリと首が固まって回らなくなると、「ああ、手元の金も無くなったなあ」という証拠である。

 今夏はいろいろな事情があって、まだ藤沢の自宅でぐずぐずしているが、大概は車の中でラジオ体操を聴く。いわゆる運転しながらのイメージトレーニングである。それでハッと気が付いたのだが、ラジオ体操の歌の歌詞が素晴らしい!今更ながらの発見である。(遅すぎたけど・・・)

 
 あたらしい 朝がきた
  希望の 朝だ
  よろこびに 胸を開け
  大空 あおげ
  ラジオの 声に
  すこやかな 胸を
  このかおる かぜにひらけよ
  それ 一、二、三


 (作詞:藤浦洸 作曲:藤山一郎)
2024年7月28日(日)晴れ
パリ五輪と「ねにもつタイプ」
 朝起きて、いの一番に「10年日記」を書き、それから朝刊に目を通すのが、自宅にいる時の日課である。
 それで今朝も日記を書き終え朝刊を手に取ってテレビの番組表を見ると、何と!パリオリンピック満艦飾と言っても過言でない。毎日曜日の楽しみである、NHKの「さわやか自然百景」も「小さな旅」も吹っ飛んでオリンピック番組に替えられている。これはやっぱりひどいんじゃないか!と憤慨頻りである。

 一昨日(7月26日)の朝日新聞「天声人語」に、翻訳家の岸本佐知子さんの随筆集『ねにもつタイプ』の紹介があった。(このタイトルにも笑ってしまった)以下孫引きであるが、「オリンピックが嫌いだ」「朝から晩までオリンピックオリンピックとそのことばかりになるから嫌いだ」「メダルの数に固執するから嫌いだ」とも書いて、金銀銅のメダルはやめて、どんぐり、煮干し、セミの抜け殻にしたらと提案している。

 この提案には笑ってしまったが、金銀銅の代替案が何ともユニークで素晴らしい。俺も真似ていろいろ考えてみた。例えば「スイカとジャガイモとプチトマト」「鉛筆と消しゴムと下敷き」などなど。しかしどれもこれも岸本さんの発想にはとても及ばない。悔しい!俺も「ねにもつタイプ」かも知れない。
2024年7月30日(火)晴れ
心の隙間を埋める領域とは
 先日の「折々のことば」(朝日新聞 鷲田清一)から

 さみしいものが見たくなるのは何故だろう 
  
 朽ちかけた家の褪せた表札やひしゃげた牛乳箱、地方の商店街の店先に佇む昭和っぽい寝間着を着たマネキン
見向きもされずに放置されたモノたちに出くわすと思わず見入り、立ち去れなくなる
人には明るさや楽しさ、豊かさや温かさだけでは埋められない「隙間みたいな領域」があって、そこを埋められるのはさみしさだけだ 
 (歌人 穂村弘の随筆集『迷子手帳』から)

 この感覚は、分かる。「そうだったのか」と何度も頷いてしまった。