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2024年2月13日(火)晴れ
Kさんとの同級会
 「ほら、こんなに元気よ。可哀想がらないで!」とKさんは朗らかな声で言った。「ほんとだよお。Kさん顔つやも良いし、隣に座ってるセキの方が病人みたいだよお」とNa君が笑った。
 俺はこの日、4人のミニ同級会でKさんと会うには度胸が決まっていないというか、おずおずとした気持ちが払拭されないままだった。泣くかも知れないという不安もあった。Kさんに会って、それが顔に出ていたようだ。ところがである。当の本人はいつもと変わらず、いや普段以上に明るかった。参った!Kさんの肝っ玉ぶりに降参である。

 「とりあえずビールで乾杯ね。わざわざここまで出向いてくれてありがとう!」 カチン!
 3日前の2月10日、昼。場所はKさんが手配してくれた熱海の居酒屋風レストランである。
 早速Kさんが俺たち3人に早々とバレンタインのチョコレートを配り、それから何やら書類を取り出してテーブルの上に広げた。No君、Na君が慌てて老眼鏡をかけて前のめりに書類を見る。○○がんセンターの医師の診断書だった。
 「ほら、これが最初の病名ね。これは5ヶ月前に治ったんだけど、先月24日に○○がんセンターでCT撮って、この病名がこれね。そして31日にまた病院に行った時に、やっぱりこっちにも転移してたのよねえ。たった5ヶ月の間にもの凄いスピードよねえ~」 「・・・・・・・」
 「それでこの下に、じゃあこれからどうするかっていう選択肢が書いてあるのね。1.何もしない、が・・・余命○○ね。2が抗がん剤治療ね・・・ほら、この場合の余命がこうね。分かる?」 「・・・はい」
 「それで2の抗がん剤治療の副作用がどうかって、先生から聞いたり自分で調べたりした内容が、これね・・・」と、Kさんがもう1枚のA4の用紙を取り出した。ビッシリとメモ書きがしてある。
 「えーと、それから3番目の処置がキイトルーダという・・・」と神妙に聞き入る俺たち3人に、まるで学校の授業のように淡々と説明する。Kさんは長らく静岡県内で高校の教師をしていたのだ。
 診断書の説明が終わってからもKさんは、「先日娘たちが家に集まって来てね、『お母さんの葬儀は私が請け負うから』って次女が言うのよね。アハハハッ!」と賑やかだった家族団らんの様子や、「ほらね」とカツラを被った自撮り写真を俺たちに見せたり、今後のスケジュールや自身の身の振り方などをニコニコと俺たちに話して聞かせた。
 ほとほと感心というか、全く呆れてしまった。これほど肝っ玉が据わってタフで素敵な女は他にいるか!?どうだ!!俺は途中で泣くことも叶わなかった。

 俺は一人で熱燗をしこたま飲んでフラフラした足取りで店を出た。店の勘定はNo君が全部払ってくれた。No君、申し訳ない。ありがとう。
 自宅に着いてスマホを開くと俺たちにKさんからの絵文字入りメールが届いていた。

 ありがとうございました。ごちそう様でした。こんな楽しい時を過ごせ、今日も幸せ
 本当にありがとうございます


 とんでもない!俺が(多分俺たち3人が)Kさんから元気をもらった1日だった。そしてはっきりと俺は確信した。Kはちょっくらちょっとで死ぬような女じゃないと。必ず生き延びると。
2024年2月15日(木)晴れ
「八月の御所グラウンド」からの回想
 あるきっかけで「八月の御所グラウンド」を読んだ。万城目学(まきめまなぶ)の直木賞受賞作品で京都が小説の舞台である。「あるきっかけ」とは、この題名の「御所」に引かれたからである。
 あらすじは以下の通りである。

 主人公の朽木は彼女にフラれて「地獄の釜」となった8月の京都で悶々と過ごしている。そこに同じ大学生仲間の多聞から草野球のメンバーに強引に誘われる。多聞から借りた3万円の借金のカタに参加させられたのである。多聞もまた祇園のクラブでボーイのアルバイトをしながらママのヒモのような暮らしをしていて学科の単位が取れず、研究室の教授が結成した草野球チームのキャプテンを命じられる。草野球同士のリーグ戦で優勝すれば単位がもらえて卒業できるという教授とのバーター取引である。しかし「8月の京都の暑さに勝てる者などいない」負け組だけが残っている京都で、9人の野球メンバーを揃えるのは至難の業なのである。
 京都御所の中にあるグラウンド、通称「御所G」(御所の中にこんな広場があったとは!)でのリーグ戦は、朽木にとってはとんでもなく早い午前6時から始まる。1回戦、多聞チームは9人ぎりぎりのメンバーで何とか勝ち進む。しかし次戦で早くもメンバー不足。不戦敗になりかけた時に、たまたま御所Gに居た朽木と同じゼミの中国人留学生シャオさんがメンバーに入る。このシャオさん(女性)のキャラクターが実に面白い。全くの野球音痴で、打席では突っ立ったままでバットを振らない。しかし相手のピッチャーは女性の出現で上がってしまってシャオさんの尻にデッドボールを喰わせてしまう。野球音痴のシャオさん、足下に転がったボールを自分で拾ってピッチャーに投げ返し、なおもバッターボックスに立っている。ベンチから「シャオさん、デッドボールだから」と声が掛かってもきょとんとした顔でいる。審判に促されてようやくシャオさんはバットを置き、何と三塁へ向かって歩き出すという始末なのである。
 2戦も勝って3戦目。京都のクソ暑さにメンバーから次々と欠場の連絡が入って、いよいよ不戦敗かという時に、シャオさんが近くの松の木の下に自転車を止めて見ていた作業服姿の男たちを引き込む。えーちゃん、遠藤君、山本君の3人組だ。何とか寄せ集めの9人が揃って試合が始まった。相手チームが(卑怯にも)元甲子園球児や社会人野球の経験者を入れてきたが多聞チームのピッチャーが好投して0-0と善戦。最終盤のシャオさんの打席で、振らないとみた相手のピッチャーが緩い玉でストライクを取りに来た。初めてバットを振ったシャオさんの打球が前進守備の内野の脇をコロコロと抜いて、塁に出ていた選手が生還。シャオさんはベンチからの「戻れ、戻れ」の声の意味も分からずに2塁までよたよたジョギングして、待ち構えていた相手に悠々タッチされてアウト。しかし虎の子の1点が入った。最終回の裏。相手チームがツーアウトながら2,3塁と塁に出て一発逆転のピンチでピッチャーが故障した。皆ズブの素人でピッチャー交代を拒んでいる時にえーちゃんに指名がかかる。相手は4番バッター、元甲子園球児である。えーちゃんの投球に4番の相手は守るというよりはただ立っているだけのシャオさんのセカンドが穴と見て狙いを定める。しかし2球とも強打の1塁側ファールでツーストライクとなる。そしてえーちゃんが、それまでのサイドスローの投球フォームからオーバースローのモーションに変えた決め球に全員が息を飲んだ。バッターは完全に振り遅れて空振り。玉はキャッチャーのミットを弾き返し、バックネットに強烈な金属音を響かせてコロコロとベースにまで戻ってきた。余りの球速に打席のバッターは振り逃げすることも忘れて呆然と立ち尽くしたままアウトとなった。試合終了!シャオさんの一振りで虎の子の1点を守り切って勝ってしまった。
 ここからがミステリーである。
 実はえーちゃんは、その年のプロ野球で最も活躍した投手にあげる賞、沢村賞のその伝説の名投手沢村栄治本人だった。沢村は京都での在学中、甲子園に3度出場した。その沢村栄治が死後80年経って「御所G」に現れたのである。彼は3度目の軍の招集で1944年フィリピンに向かう途中で戦死した。27歳だった。そして遠藤君(本名:遠藤三四二)は1943年10月に京都大学法学部に入学した。戦局の悪化に伴い少しでも多くの新兵が欲しい政府が法律を変更して、大学生からの徴兵と9月卒業、10月入学を法律で定めた。彼は僅か2ヶ月の学生生活のあと軍の招集を受け、2万5千人が参加したという「雨の神宮外苑の学徒出陣式」とは別に、当時快晴だった京都大学農学部グランドで行われた「出陣学徒壮行式」の会場で、1800人の学生たちと共に参加して出兵。1944年に21歳で北支で戦死した。山本君(本名:山本誠一)も大学入学早々に軍の招集を受け、彼も北支で戦死した。19歳の若さである。そして3人ともが、それから80年経って、ただただ野球をやりたくてお盆を迎えたこの京都に現れたのだ。
 4戦目を控えて、朽木と多聞は京都5山の送り火の一つ、大文字山が見える神社の階段に腰を下ろして火が点けられた「大」の字の送り火を見ていた。盆が終わって、えーちゃんたちはもう御所Gには現れないだろうと思いながら・・・。
「みんな----,生きたかっただろうなあ」 それから多聞が言う。
「なあ、朽木。俺たち、ちゃんと生きてるか?」 しばらくして朽木が答える。
「それが----俺たちとの約束だろう」


 小説では、主人公の朽木も多聞も22歳の学生。ちょうど俺が京都の下宿で暮らしていた時と同じ年齢である。だからこの小説に出てくる京都御所の砂利道も毎日のように俺は通っていたし、百万遍という場所も、ようやく家からの仕送りが届いて、この辻角にあった2階の喫茶店に入ってホッとした時間を過ごしたりした。それからまた、この小説に出てくる今出川通りを歩いて、朽木が彼女にフラれたという賀茂大橋を毎日のように渡って・・・。今出川通りを挟んで本館と反対側にあった農学部の敷地内にも1度か2度かこっそりと入った。ここで「出陣学徒壮行式」があったとは、この小説で初めて知った。そして大文字山の「大」の送り火も、下宿近くから眺めていた。当時は、どんな心境だったのだろうか・・・。「お盆くらいは家に帰ってこい」というおやじの手紙には応えず、盆も、そして正月もずっと京都に居座ったままだった。
 あえて忘れようとしていた56年前の京都が、「八月の御所グラウンド」に出てくる懐かしい地名から思い起こされて、感慨ひとしおである。
2024年2月19日(月)雨
雪国の情
 今日は二十四節気第二の「雨水」である。その名の通り、ここ藤沢ではこの時期としては温かなシトシト雨が朝から降っている。春がもう来た感じである。
 関東では15日に春一番が吹いた。昨年より14日も早い春一番だそうだ。この日、北陸や四国でも春一番の発表があったようだ。季節が年々前倒しになって来ている。地球、大丈夫だろうか?

 昨日曜日の朝日新聞の歌壇と俳壇に次の句が載っていた。

 古老云う「雪の深さは情の深さ助け合わねば生きられない」と (長岡市) 柳村 光寛
(毎年毎年大雪だった遙か昔のふるさとを懐かしく思い出した)

 冬ざれや我が一灯に友集う (船橋市) 斉木 直哉
(選者の評に「冬の夜の円居(まどい)。また嬉しからずや」とあった。ああ早く山に帰りたいなあ)
2024年2月20日(火)晴れ
のび太君
 今朝の「天声人語」からの抄録

 『ドラえもん』ののび太は、何をやってもいいことがない。テストは0点だし、犬にかまれるし、買ったばかりの漫画をジャイアンに取り上げられる▲・・・・・・▲ドラえもんから眼鏡型の道具「ファンタグラス」を借りたのび太は、童話さながらに、動植物と心を通わせられるようになる。大事に育てたタンポポから、綿毛が最後にひとつ、春風に吹かれて飛んでゆく▲どこへ行くつもり? のび太の問いに綿毛が答える。「わかんないけど・・・、だけどきっと、どこかできれいな花をさかせるよ」。旅立つ若者たちに幸あれ。

 今日からKさんのがん治療が始まる。