2023年8月9日(水)晴れ |
おやじ山の夏2023(様々なこと想い出す夏) |
先月31日からカミさんを伴っておやじ山に入り、今月6日に山を下りて藤沢の自宅に帰って来た。湘南の暑さに辟易して長岡に向かったのだが、どうしてどうして、長岡とて天気予報の全国版で度々名を馳せるほどの猛暑の毎日だった。
そのせいかどうか、この夏のおやじ山は随分静かだった。鳥の鳴き声も聞かれず、例年はやかましい程の蝉も今年は鳴かず、蚊もいなく、虫もヘビにも出くわさず、風の小屋前のアカイタヤの葉っぱが時折微妙に揺れて「ああ、風かあ」と初めて気づく程度で、山全体が強烈な暑さにじっと息を止めて堪え忍んでいる感じだった。
こんな中、8月2日に、山仲間のTさん、Kさんご兄弟とご家族から長岡花火の枡席に招待された。何年かぶりの信濃川河川敷で観る大花火だったが、その豪華さと人出の多さに圧倒されてしまった。(長岡花火財団は2日、3日両日で29万5000人が訪れたと発表)しかし、こうしてSさんご家族水入らずの中に我々夫婦もお仲間に入れていただき、この事が何よりも嬉しく感謝に堪えなかった。
翌8月3日は、時間になって小屋を出て、夜径を歩いて見晴らし広場の展望台からの花火見物だった。埼玉、茨城、千葉、そして地元長岡の、それぞれ大きな望遠レンズを持った4人のカメラマンと一緒だったが、皆さん我々の背後で紳士的に撮影してくれていた。
信濃川河川敷から「フェニックス」と「三尺玉」 3枚目は見晴らし広場からの花火
6日に山を下りて、越後湯沢からは17号線を走り三国峠越えで猿ヶ京温泉に立ち寄り、「まんてん星の湯」で一風呂浴びてから藤沢に帰った。途中懐かしい「平標山」の登山口や湯桧曽川の河原にも寄ってみたかったが、先を急いだ。7日の午前に予定を入れていたからである。
クソ暑くても夏は俺が一番好きな季節である。ガキの頃の様々な想い出がいっぱい詰まっている季節だからである。
(下は、ちょうど1年前に新潟日報に掲載された投稿である)
2022年8月9日新潟日報「窓」掲載 |
見晴らし広場から長岡市街地を望む(2023.8.6)
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2023年8月15日(火)曇り、終戦記念日 |
忘れ得ぬ夏(跨線橋で出会った父) |
前ページの日記で、夏はガキの頃の想い出がいっぱい詰まっている、と書いた。その通りである。以下の文は2015年の夏の終わりに書いたものだが、少し手直しして再掲した。
「跨線橋で出会った父」
記録的な猛暑日が続いた今年の夏が終わった。そして暑い夏になると決まって思い出すのが、あの跨線橋の上で出会ったおやじの姿だった。
それは昭和30年頃の、家族が宮内から長岡の鉄道官舎に引っ越して間もない、小学校4,5年の時の夏の記憶である。
この頃俺は昆虫採集に取り憑かれていて、夏休み中はほとんど毎日、お袋が作ってくれた捕虫網を手に蝶やトンボを追いかけ回していた。旭町の鉄道官舎から行く所は決まっていて、一カ所は地元の人たちが「お山」と呼んでいる悠久山。ここに水草がびっしりと生えている大きな池があって、この畔で縄張りを作って翔んでいるオニヤンマやギンヤンマを狙うのである。そしてもう一つが、キアゲハやクロアゲハ、ジャコウアゲハなどが翔び交っている国鉄第二機関区の広い操車場に架かかる跨線橋の土手だった。おやじは当時、この第二機関区の線路班で線路工夫として働いていた。
鉄道官舎を出て、線路脇の田んぼ道を40分ほど歩くと、この跨線橋の土手に突き当たる。ここから土手に沿って登り口まで迂回し、長いだらだら坂を跨線橋へと上っていくのである。跨線橋を渡り終えた線路の向こう側の土手が、いつもの捕虫網を振るう場所だった。登りの土手からは、おやじが夜勤だった翌朝、お袋に言いつけられて弁当を届けにきた線路班詰所が見えた。
土手の斜面には夏草が茂り、野薊や馬の鈴草、昼顔などが咲いていた。土手の下は野菜畑になっていて、その一画が百日草や鶏頭、グラジオラスなどが咲き揃った花畑だった。キアゲハやクロアゲハなどの大型の蝶は、この花畑から土手の斜面に沿って翔んでくる。この蝶を狙って土手の上で網を構えるのである。
この捕虫網は、内職でミシンを踏んでいたお袋が、古くなった布地を縫って作ってくれたものだった。駄菓子屋で売っている網では目が粗く、蝶の翅が痛んで標本作りが上手くできなかったし、絹かナイロン地の専門の捕虫網は、とても高価で俺が買ってもらえる代物ではなかった。
この手作り捕虫網を振るうには、かなりの腕力を必要とした。網からうまく風が抜けず、強風に泳ぐ鯉のぼりのように大きく膨らむのである。ある日、土手下の野菜畑から蔓が伸びて土手の中腹あたりで実を生らしていたカボチャを夏草の中で見つけた。ここはもう畑ではないと、この網の中にカボチャを入れて意気揚々と家に持ち帰った。子どもながらに食料調達で家計を助け、お袋を喜ばせたかったのである。「母ちゃん、土手でカボチャ見つけた」と得意満面で捕虫網の中を見せた途端、お袋が「あらあ~!」と大声で叫んで、「母ちゃん、お前をこんな泥棒に育てた覚えはない。返してきなさい」とこっぴどく叱られた。そして泣き泣き元の土手に置いてきた苦い思い出がある。
そしてこの日も、いつものように捕虫網を持って第二機関区の土手に向かった。土手のスロープを上がり跨線橋に差しかかると、真夏の太陽に炙られた橋の上はゆらゆらと陽炎が立ち昇って、トラス橋の鉄骨が歪んで見えるほどだった。その陽炎の奥から、一輪車を押した黒い人影がこちらに向かって来た。「あっ、父ちゃんだ」と気付いて、一瞬心が弾んだ。
しかし灼熱の太陽で世界がしんと静まり返ったような空間の中を、父はじっと下を向いて、重そうに一輪車を押していた。真っ黒に日焼けした顔と腕。その上半身は、汗でぐっしょり濡れた半袖の下着が黒くへばりついていた。そして泥だらけの菜っ葉ズボンとぶかぶかのゴム長。そのあまりに惨めなおやじの姿に、俺はたじろぎ、開きかけた心が一気に閉じてしまった。
ここでおやじと出会ってはいけないのだと思った。今ここでおやじが蒸発して目の前から消えてくれればと願った。そしてくるりと踵を返して、逃げ出したい衝動に必死に耐えた。
おやじと跨線橋の上で出会い、俺は堪らない恥ずかしさで下を向いたまま押し黙っていた。おやじは俺に何かを話しかけたはずだ。しかしその言葉の記憶は何もない。ただ俺はじっと口を閉じたまま、おやじが通り過ぎてくれる時間に耐えていた。
俺はこの時のおやじの姿を、長い間忘れないで来た。
今年もまた暑い夏が来て、跨線橋で出会った一輪車姿のおやじを脳裏に浮かべる時、俺は堪らなく悲しく、悔しく、そして懐かしくなる。俺はあの時、「父ちゃあん」と叫んでおやじに甘えたかったのだ。それが、あの真っ黒になって働いている姿に拒絶されて、おやじの胸に飛び込むことができなかった。その慚愧とおやじへの悔恨の念が、60年以上経ったこの夏も、また辛く思い出されるのである。
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2023年8月20日(日)晴れ |
忘れ得ぬ夏(湯桧曽川) |
<2016年8月16日の日記から。(この夏をおやじ山で過ごし、下山した日の記録です)>
4時起床。まだ薄暗い外に出ると、星が瞬いていた。お湯を沸かしお茶を啜りながら、日記帳を開いて朝の日課となった日記をつける。池に落ちる谷川からの引き水の音だけが小屋に届いていた。
おやじ小屋のドアに鍵をかけ、それから小屋に向かって深々と頭を下げながら「ありがとう、ございましたあ」と、いつの頃からか習慣になってしまった大声で叫ぶ挨拶をして山を下った。
おやじ山滞在中は何やかやとお世話になっている日赤町のSさん宅にお別れの挨拶に伺うと、今日の下山は先刻承知で、ゆうごう(夕顔)の入ったくじら汁や村上産の塩鮭など、ご馳走が並んだ朝の食卓が待っていた。そして腹一杯食べた朝餉のほかに、段ボール箱に長岡野菜をぎっしりと詰め込んだお土産まで頂戴して、ご夫婦に見送られて長岡を離れた。
藤沢の自宅へは関越自動車道には入らず、国道17号線をのんびり走って帰ることにした。車を走らせながら魚野川に立つ釣り人を眺め、国道脇に車を停めては、夏の越後三山を写真に収めたりした。
越後湯沢を通り過ぎ芝原峠の坂道に差しかかって、突然湯桧曽に立ち寄ることを思いついた。道中で長かった山籠りの垢でも落としてと考えていた「街道の湯」の入浴を諦め、三国峠を走り抜け、何度か立寄ったことがある猿ヶ京温泉も素通りして、赤谷湖から左に折れて国道270号線に入った。そして水上温泉を通過して湯桧曽駅の前で車を停めた。
昭和25年の夏、構内の長い階段を上って、貧しい鉄道員夫婦に手を引かれた3人の男の子がこの駅を下りた。小児麻痺の足を引きずった小学6年の兄と小学3年の次兄、そして父の故郷の古志郡青島村から宮内町に引っ越し、地元の保育園に通い始めた5歳になった自分の3人兄弟である。
鉄道員の家庭とはいえ父は国鉄の臨時の雇員で、いつ首になるかも知れない線路工夫の仕事に就いていた。日々の暮らしに精一杯の貧乏生活で、家族揃って汽車旅行などできる余裕はなかった。しかし不安定ながら仕事に就いてようやく2年が経ち、年1回だけもらえる管内の路線を只で乗れる家族パスが支給されたのである。
ずっと後になって父は、一家揃ってのこの汽車旅行をこう振り返った。
夫婦で決めた当初の計画は、父が勤める新潟鉄道管理局管内の一番遠い境界駅「水上駅」まで行く予定だった。子ども達にも「汽車に乗って遠くの温泉に行く」と告げて飛び上がって喜ばれたという。ところが乗車途中で夫婦のどちらともなく「水上は賑やかな町で立派な温泉旅館しかなく、子ども達には目に毒な土産物屋も建ち並んでいる。行き先を変えよう」と。それで急遽一つ手前の湯桧曽駅で汽車を下りたのだと言った。
それから家族は湯桧曽の温泉街を通り過ぎ、旅館に入れると思った兄たちを両親がなだめながら湯桧曽川の河原に下りた。そこで持参のおにぎりを皆で頬ばり、全員が素っ裸になって湯桧曽川の浅瀬で水浴びを楽しんだ。3人の兄弟も一家揃っての水浴びに興奮し、「温泉だあ、温泉だあ」と盛んにはしゃいだのである。
そしてまた両親に手を引かれた兄弟3人は湯桧曽の駅に戻り、この家族揃っての最初で最後となった汽車旅行を終えたのである。
俺はこの旅の車中での記憶はほとんど残っていないが、湯桧曽川で遊んだ記憶だけは鮮明に覚えている。若かった母がまばゆい肌を晒して浅瀬に膝を折って座り、笑顔で子ども達を見守っていた70年前の情景は、しっかりと脳裏に焼き付いていた。
再び湯桧曽駅から車を走らせ、湯桧曽川に架かる橋を渡ると数軒の旅館が並ぶ小さな温泉街に入る。ここを抜けて右に折れ、土手道をゆっくり走りながら河原に下りられそうな場所を探した。少し走るとぽつんと軽自動車が置いてある小さな空地があった。この空地に車を停めて河原を望むと人影がある。なるほど、空地からは河原に下る細い小道がついていた。
河原に下りると、湯桧曽駅から間もなく渡った橋が意外に近くに見え、その奥に上越線の鉄橋が見えた。この場所なら駅から近く、11歳の足の不自由な子どもでも連れて来られる距離である。
次第に胸が高鳴って来るのが分かった。川の下流を振り返ってワンドで深く淀んだ川面の風景に目を凝らし、再び上流を見て、橋やその向こうの上越線の鉄橋や、その奥の山の景色を眺めながら遙か昔の記憶の風景とを重ね合わせた。そして紛れもなく70年前に貧しい鉄道員の家族が、この河原で夏の一日を過ごしたのだと確信した。
河原には、若い夫婦と2,3歳くらいの男の子が遊んでいた。「どこから来たの」と声をかけると、「地元です」との返事。
「いいねえ。こんな近くで坊やの水浴びができて」。「ええ、そう思います」。若い夫婦は屈託のない笑顔で答えた。
「おじさんね、ずうっと昔、まだ子どもだった時にここで水浴びして遊んだことがあるんだ」と、なぜかこの若夫婦に教えたくなって言葉が出た。
「え、そうなんですか。私達と同じですね。それでここ、昔と変わってないですか」
「さあ、どうだろう。何しろおじさんがこの坊やよりはちょっとだけ大きかったくらいの頃だからねえ」と、子どもに目を向けながら言った。
今朝Sさんご夫婦から手渡されたおにぎり弁当を車に取りに行って、再び河原に戻った。そして少し離れた場所に座って、河原で遊ぶ若い夫婦と男の子の家族を眺めながら、弁当を食べた。
目を細めながら眺めていた若夫婦家族の姿が、この河原で遊んだ遙か昔の忘れ得ぬ夏の記憶と風景を呼び起こして、懐かしさで胸がいっぱいになった。目に涙が溢れ、止めどなく流れ落ちるのだった。
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