最後のページは<12月17日

2023年12月1日(金)晴れ
おやじ山の秋2023(プロローグ-その2)
<朋有り、遠方より来たる>

 25年前に再びこの山に入り、まだ小さなガキだった頃に、おやじに付いて駆け回っていた時の懐かしい里山の風景を思い出した。そしてできれば、当時の里山の風景を再現したいと思った。そうすればまた、ここで家族と共に過ごした遠い昔の思い出に浸ることができ、とっくに死んでしまったおやじにも会うことができると思った。俺の郷愁である。

 会社勤めが終わった定年後から杉植林地の間伐や枝打ちを始めて、小屋掛け(おやじ小屋造り)、作業道の作道、草刈り、雑木林の除伐や藪払い、谷地の池掘り、そしてきのこ栽培と、訪ねて来た友人や地元の山仲間の手を借りながら山施業を続けてきた。山の風景は、100年単位の長い年月と不断の手入れで、少しずつ少しずつ熟成するように仕上がるものだと思っている。その意味では目標が達成できるのはまだずっと先の事で、20年足らずの施業でどれほどの成果が出たのか心許ない限りである。

 それでも毎年決まったように古くからの友人達がこの山を訪れ、また親しくなった新しい友らがこの山に来て、「いい山ですねえ」と呟いてくれるこの一言で、また山施業を続ける大きな励みになるのである。

 この秋も、古くからの友人がおやじ山を訪れてくれた。
 夏日が一段落した10月12日には、不自由な身体をおして信州信濃大町からOさんが来てくれた。Oさんはこの山をこよなく愛し、2004年の新潟県中越地震後にはいち早く駆けつけてくれて、崩れた山径や被災したおやじ小屋の修復に汗を流してくれた。昨年同様妹さんの運転で長岡入りし、昨年は見晴らし広場で車を降りて、ゆっくり杖をつきながら歩いて風の小屋まで到達できたが、今年は残念、見晴らし広場の展望台に上って越後平野と長岡の街並みを眺めただけで、信州に引き返した。それでも「おやじ山の空気を吸えて嬉しかった、ありがとう!」のOさんからのメールに胸が熱くなった。
 毎年決まって春と秋の年2回おやじ山を訪ねてくれる神奈川の森林インストラクター仲間が11月17日、18日と来てくれた。Sさん、Tさん、Kさんの3人組である。Sさんも2年程前から手足が不自由になり、それでも「おやじ山の空気を吸いたい」と訪ねてくれたのである。この3人が毎年おやじ山に来るようになって既に15年以上の歳月が経った。東京と横浜で生まれ育ったSさんは「おやじ山は俺の第二のふるさとだ」といつも口にしていた。
 当日は生憎の雨模様で、Tさん、Kさんはカミさんとともに風の小屋で寝食を共にできたが、Sさんはやはり車での見晴らし広場までで、その先の歩行はできず、停めた車の中で過ごさざるを得なかった。その日はSさんと二人で街に下りて市内のホテルに泊まったが、それでもSさんは、おやじ山の空気を吸えただろうか。第二のふるさとの匂いを嗅げただろうか。

 そしてこの秋は、珍しい新しいお客様が山に来てくれた。11月8日、魚沼市上折立にある「いろりじねん」のご夫婦がシンガポール国籍のRさんご夫婦を伴っての来訪だった。「いろりじねん」は大湯温泉の入口近くに店を構える山野草料理の専門食堂で、素材の味や色彩を存分に活かした芸術品とも言える抜群の料理とご夫婦の人柄に魅せられて長く通っていた。食堂の部屋からは田圃と越後駒ヶ岳の雄姿が望まれ、ホッと寛げる空間が大好きだった。そのご主人と奥様の来訪は本当にありがたく、お店の大切な外国のお客様をお連れするという嬉しい光栄にも預かった。
 当日はRさん夫婦初体験のホダ木に生えたシイタケやナメコの採取をしたり、いろりじねんのご主人が丹精込めて料理した素晴らしいご馳走を囲んで談笑したりと、決して忘れることが出来ない時間を過ごした。Rさん夫婦がおやじ山の風景を「素晴らしい」「美しい」と何度言ってくれたことか。嬉しかった。
 「いろりじねんのご主人、奥さん、Rさんご夫婦、またおやじ山に来てくださね~!」

 さらに神奈川から森林インストラクターのNさんが、そして東京からは森林調査の相棒Kさんが山に来て、この冬の雪害の処理や薪割りをやってくれた。

 「有朋自遠方来 不亦楽乎」である。
2023年12月9日(土)晴れ
青木理氏と桐生悠々
 先日(12月2日)、平塚の中央公民館で開催され「今、戦争と平和を語る」(主催:第18回平和を語りつぐ実行委員会他)と題された講演会を聞きに行ってきた。TBS系列で毎週日曜の朝生放映されている関口宏司会の「サンデーモーニング」でレギュラー出演しているジャーナリストの青木理(おさむ)氏を招いてのイベントだったからである。上智大学名誉教授の石川旺(さかえ)氏との対談だったが、石川教授はインタビュアーの役割に徹しておられた。

 青木氏は今マスコミを騒がせている自民党派閥の裏金問題を皮切りに(検事・警察と蜜月にあった安倍元総理の死去による重しがとれた故の検察の動きか)、福島第一原発の「汚染水」放出問題(「処理水」で思考停止。40年もの放出期間と現存する800トンのデブリ処理の疑問)、ウクライナ侵攻前のプーチン政権の統制(ロシア文学者・奈倉有里著「夕暮れに夜明けの歌を」を紹介しつつ)、そして青木氏(信州小諸出身)と同郷の小説家井出孫六が1980年に初版を著わした「抵抗の新聞人 桐生悠々」の紹介と、この本を読んでジャーナリズムの世界に入ったことなどを話された。
 最後に、メディアとメディア人の現状を「どんどん悪くなっている」と、その衰退ぶり(紙メディアの急落と代替メディアの不在。権力の報道介入やメディア人の萎縮・忖度報道など)を自戒をこめて吐露し、郷土の「信濃毎日新聞」主筆を2度務め、明治末から大正・昭和の戦時下にあって、時の権力と激しく対峙した反骨の言論人桐生悠々の代表句を紹介して講演を終えた。その句とは
 <蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜>
 今この句は、多摩霊園にある「桐生家の墓」の小さな石碑に刻まれているという。この句がなければ悠々の墓と気付かないほど慎ましやかな墓に添えて・・・。

 青木氏とは講演が終わってから、名刺を交わしながら直接講演を聞けた御礼と少しの感想を述べさせていただいたが、早速青木氏の人生を決定づけたという「抵抗の新聞人・・・」(岩波現代文庫で復刻)桐生悠々の人物評伝を取り寄せて読了した。文中「信州は言論の国である」と所々にこれと、また同趣旨の表記があり、長年の友人Oさん(信濃大町出身)を思い浮かべながら「その気風は今も引き継がれているなあ」と得心したのである。。
2023年12月17日(日)晴れ
今、戦争を考える
 今年10月に勃発したパレスチナ・イスラエル戦争によって、パレスチナ自治区ガザ地区での死者数は1万8千人を超えたと伝えられている。ガザ地区は種子島ほどの面積に200万人が暮らし、人口の約45パーセントは14歳以下の子ども、7割は難民となった人たちだ。犠牲者のほとんどが罪のない子どもや日々の生活に事欠く難民であることは想像に難くない。
 また20222月のロシアによるウクライナ侵攻以来、ウクライナでは1万人以上の市民が殺害されと報じられている。
 連日報じられるこれら悲惨と残酷のリアルに、人類が誕生して500万年の歴史を経ても、いまだ戦争を止められない人知のふがいなさに心底落胆し、打ちひしがれている。人類は500万年もの間、進歩ではなく退歩の歴史を刻んで来たのではないかと。

 戦争とは所詮権力者と権力者の私憤による「ケンカ」である。ウクライナ戦争ではプーチンとゼレンスキー、パレスチナ戦争ではネタニヤフとシンワル(ハマスの最高指導者)である。この個人対個人のケンカに権力者は言葉を弄して国民を巻き込むのである。私憤を公憤にすり替え正義化する欺瞞の産物が戦争である。
 戦争には如何なる正義も存在しない。信州上田市にある無言館に何度か足を運んだが、そこに展示された戦没画学生の11枚の絵から、戦争こそは人為によって生身の人間のアイデンティティと尊厳とを奪う究極の人間否定の行為だとあらためて思い知らされる。その戦争によって奪われるたった一人の命は、いかなる正義とも帳消しにはできないものだと思うからである。