最後のページは<7月31日

2022年7月12日(火)曇り
自宅に帰りました
 7月7日におやじ山を下りました。そしてカミさんの郷里仙台経由で昨11日の深夜に藤沢の自宅に帰りました。

 下山当日の7日は、小屋閉めの手伝いに山に来てくれたカミさんの慰労(機嫌とり?)も兼ねて山古志の宿(あまやち会館)で過ごし(折しも七夕で、満天の星と中天に掛かる壮大な天の川を見ました)、翌8日に先日亡くなった仙台の義姉の家に向かいました。留守になった家での後始末の手伝いがまだ残っていたからです。

 この春の山入が3月17日で、そして下山が7月7日。その間先の仙台での弔事で何日か山を空けましたが、およそ三月半程の山暮らしでした。今回もまた、電気も水道もない不自由な山の生活を長岡の仲間達が気遣い、そして支えてくれました。皆さんに心から「ありがとう」と感謝です。

 山ではテレビも新聞も無く、見ざる聞かざるで過ごせましたが、娑婆に下りた途端、テレビが大声で騒ぎ新聞に大見出しが踊って、もうこれだけでうんざりして山に戻りたくなりました。

 しばらくは息をつめるようにして、少しづつ少しづつ娑婆の空気に身体と心を馴染ませて行こうと思っています。
2022年7月31日(日)猛暑日
スシローでの誕生会
 息子の誕生日は明日8月1日だが、息子は朝5時過ぎには家を出て深夜帰宅の毎日で、たまさかの休日の今日、家族で誕生会をやることにした。そこで息子に、「外でお祝いしてやろうと思うんだけど、どこかリクエストある?」と訊いた。答え一発、「スシロー!」と返ってきた。確か自宅から歩いて10分ほどの国道沿いの交差点にそんな回転寿司の店があって、入ったことは無かったが、いつも駐車場の出入り口で誘導員が忙しく赤い指揮棒を振っていた。

 息子が家を出てから既に20年近くが経って、その間はもちろん、息子の誕生日とて祝ってやることは無かった。たまたま昨年暮れに帰って来て初めての息子の誕生会である。息子は仕事柄あちこちの店を知っている筈で、洒落たレストランか料理店を名指すと思っていたが(特にカミさんは久々の外食で期待満々の素振りだった)、近所の開店寿司屋と聞いて、ちょっと気勢が削がれてしまった。

 店に入ると、既に何組が順番待ちである。受付もタッチパネルで、ピッ・ピッと画面を叩くと印刷された紙がにょろにょろと出て来た。「ふ~ん、212番だって・・・」と家族にかざして、何やら感心して印刷された紙をまじまじと見つめた。待つこと十数分。「ピン・ポ~ン!」と壁のデスプレイに212番が表示されて、印刷された紙のバーコードを読取り機にタッチすると、今度は「17番」と印刷された紙が出て来た。「17番の席だって・・・」とまた家族に紙をかざして席に着く。「いらっしゃいませ」も「お待たせしました」も「お席にご案内します」も、誰も一言も言ってくれない。まあ、うるさくなくていいけど、何やらどこかの収容所でゾロゾロと並んでエサを貰いに行くみたいだ。

 注文も席に置いてあるタッチパネルである。これはもう奥に座った息子と娘に、「俺は先ず生ビールと日本酒。あとは何でもいい。委せる!」と言い放った。

 カミさんは、注文した寿司ネタを箸で剥がしては、「ご飯ボロボロ。しっかり握ってな~い!」などと不満を口にして、息子から「ここはシャリを手で握っているんじゃないよ。機械で型にポンと入れて、ネタを被せてるだけ」と説明されてしょんぼりしていたけど、俺はスシローでの家族揃っての食事も、悪くはなかった。どんどん注文して積まれてゆく旺盛な息子の皿を微笑ましく眺めながら、「いいものだ」と思った。
 冷や酒を口に含みながら、窓の外を見ると、まだほの明るい夏の夕まぐれの空に、信号機の灯りがやけに目立って見えた。いつも山の緑を見ながら一人酒を飲んでいただけに、こうして間近の信号機を眺めながら家族と一緒に酒を飲んでいる自分がおかしかった。

 猛暑続きに異常気象と異常感染拡大の新型コロナ第7波、更には宗教団体と政治家の異常事態に揺れた暑い、熱い7月が終わって、明日から8月である。