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2022年3月1日(火)晴れ後曇り
場所を辿る旅(大田区南馬込4丁目37番地、大田区南馬込3丁目13番地-その1)
 2月24、5日と、俄に思い立って「場所」を辿る旅に出た。コロナの所為で長く蟄居生活を強いられた反発があり、つい最近に瀬戸内寂聴の小説「場所」を読んで思いたった所為もある。

 指折り数えてみると、生まれてこのかた20回引っ越ししている。まだガキで両親と一緒に居た時に、古志郡青島村から宮内町へ、そこから長岡市旭町へと2回、そして18才で東京に出て現在に至るまでが18回である。今回訪ねた場所は、生涯の9回目と10回目に俺が住んでいた場所である。

 その2つの場所には、(手元のある記録から調べると)昭和44年5月6日から11月16日までの6ヶ月余りは確実に住んでいたことになっている。しかしおぼろな記憶では(何しろ俺が23,4の歳で、既に53年もの歳月が経っている)11月以降、翌昭和45年の1月くらいまでは住んでいたかも知れない。今思い返してみると、たった8ヶ月余りの短い期間だったが、シュトルム・ウント・ドランクの当時のあれこれが鮮明に蘇って、抱きしめたいほどの懐かしさと愛おしさで胸が一杯になるのである。

 初日(2月24日)には藤沢税務署で確定申告を済ませたあとでその場所に向かったので、大森駅北口改札を出た時刻は午後2時半を回っていた。

 駅前から荏原町駅行きのバスに乗って、臼田坂下で下りる。「龍子記念館入口」と書かれた信号機を左に曲がって4,5分で、道路の左側に龍子記念館、そして右側にはコンクリート塀に囲まれた日本画家の川端龍子が住んでいた大きなお屋敷がある。鍵の掛かった鉄扉の脇に「大田区龍子公園」の看板があって、10時、11時、午後2時の1日3回、職員の案内が出来ると書かれていた。 
 道路はそこで民家に突き当たる。確か昔は喫茶店だった筈だが、今はレンガを模したタイル壁に洒落た出窓が付いた洋風建築の民家になっている。そこから道は鍵型に左、そしてすぐに右にと折れて、5,60メートル先でセブンイレブンのコンビニ店に突き当たる。ここまでの間に「観音湯」という銭湯があったが、今はもう無くなっていた。店舗を右に回るとそこからは桜並木の少し広い通りが続く。道路脇が遊歩道になっていて桜並木の間には所々にベンチが設えられて、東屋の下では二人の老婦人がのんびり休んでいた。俺がいた当時は、ここはコンクリート護岸の堀川だった。その時の桜の若木が、今や幹回りが二抱えもありそうな堂々とした老木に育っていた。
 桜並木通りの右側に「おそば松登久」の青い看板が目に入った。その手前が畳屋だった。この2軒の店だけは当時そのままである。そばやの脇から奥に入る道路が1本あり、さらに桜通り沿いに進むと、黄色い車止めポールが立ったもう1本の奥に入る道がある。その入口に立つと、奥へ続く家並みの風景は様変わりしているものの、砂利道だったこの小路は、53年前の微かな面影が残っているようだった。

 小路に入ると道に面して集合アパートが2軒続き、その対面は数軒の民家の狭い裏庭が枯れ草に覆われたまま続いている。当時はここに小さな家内工場が2軒あった。1軒の裏窓からはタイプ印刷機が回るカチャカチャ音が、もう1軒からは鋼板を射抜くガチャンという間歇音が、近所を憚るような慎ましやかな音で聞こえてきていた。歩を進めるに従って胸がドキドキとした。
 そしてその「場所」は、すっかり黒いビニールシートで覆われた更地になっていた。

(続きは、また後日アップします)

 桜並木通り(堀川の暗渠跡)   畳屋とそばや      「場所」へ向かう小路

「4丁目場所」は更地になっていた 

2022年3月5日(土)晴れ
環君の死を悼む
 昨深夜、知合いの男が死んだ。胆管癌が全身を蝕み、凄絶な死だった。俺の又従兄弟にあたる男で、何故か小さい時からずっと、こんな俺でも慕ってくれていた希有の一人だった。残念で、気の毒で、悲しくて仕方がない。

 入院中の本人(環という)から最初に電話があったのが先月13日だった。「これが多分最後の入院で、孝雄さんにいろいろ頼みたい」という内容だった。それから今まで、10数回の本人との電話でのやりとりや、俺が第一連絡人になって、病院(新大久保にある東京山手メデカルセンター)との連絡や、長岡の彼の実家のY兄、亡くなった先妻の子どもYちゃん、そして現在の家族HさんとAちゃんなどとの仲介役をやってきた。何しろ首都圏や全国に「まん延防止等重点措置」のコロナ対策で病院側の厳格な規制があり、その中でようやく一昨日(3月3日)、病院との調整で先の親族と俺の5人だけで、一人乃至二人づつ各5分の制限で面会できた。まだ「環!」と俺が呼びかければはっきりと反応はあり、本人の口からも微かなしゃがれ声が出ていたのだが、残念ながら言葉の意味は理解ができなかった。

 そしてその面会からわずか10時間後の昨日午前1時に、病院からの電話でたたき起こされた。「患者さんの心臓が止まりました。死亡確認に来て下さい」というのである。まさに深夜である。それに一昨日午後の面会の後、雪の越後からわざわざ上京して来たY兄をすぐ帰すわけにも行かず、新宿のホテルを予約してやり、その地下にあった居酒屋で二人で酒を飲んだ。それから自宅に帰り、さらに一人で昼間面会した環の無残な病み姿を思い浮かべながら涙酒を呑み続けて、床についたのはつい先ほどである。「これから行くと言っても・・・そちら、病院にお任せということで・・・」と口ごもっていると、「分りました。後ほどまた電話します」と一度切れて、「1時18分に死亡確認いたしました」と病院から連絡が入った。二日酔いというより、その日酔いのふらつく身体で起上がり、冷蔵庫の水をがぶ飲みし、一呼吸してからホテルのY兄に連絡を入れ、Hさん、Yちゃんに連絡し、朝一番で病院に駆けつけたのである。

 今、環君の生涯を振り返ると、まさに波瀾万丈の一生だったように思う。慕ってくれていた俺の若い時代を多分真似て、世間の真っ当さを忌避して、敢えて苦難な道を選ぶ生き様を、彼はその後の人生の途中で立ち止まり、再考し修正もせずに、ひたすら純粋無垢なまま突き進んだ。
 彼は都心の一等地にある美しい教会や今俺が住んでいる近所のモダンな公共施設など(まだまだ俺の知らない多くの建物を造っただろう)、素晴らしい作品を造った一級建築士だった。それがある時以来、建築士の仕事を投げ出し(そして多分家族も投げ出し)日本地図の元祖伊能忠敬に取り憑かれ、古い伊能地図を手にして伊能道探査の旅に出たのである。その研究成果の断片を見た事があるが、建築家の緻密さのなせる業か、自身の偏執狂か、細かい図表の資料は詳細を究め、一目見ただけで俺の目と頭はクラクラと酔ってしまった。特に彼自身の郷里(俺の郷里でもある)越後の伊能道の研究は詳細に詳細を究め、資料館に残された専門家の研究の誤りを指摘し、観光目的で「伊能道」と表された公共物のねつ造を激しく糾弾しと、彼そのものの無鉄砲と生真面目さで、伊能道研究と後半生とを貫き通したのである。

 その彼の乱調さに俺自身の若かりし頃を投影して、本当に彼が可愛かった。俺のおやじや兄貴が死んで郷里で葬式を挙げた時など、どこから聞いて来たのか、巨体(高校時代は棒高跳びの選手だった)と髭ぼうぼうの顔でひょっこり現れて、彼の父親でさえ息子に向かって「はて、どちら様でございますか?」と尋ねて驚愕させるほどの異様さも、彼の魅力の一つだった。

 昨日は病院の霊安室で彼の顔をさすりながら涙が止まらなかった。一昨日の面会の最中にも、激しい痛みに顔を大きくゆがめ歯を食いしばって、まさに死の間際まで俺に配慮してみせた環に、「どうか、どうか安らかに眠れ!」と心で叫びたいのである。
2022年3月8日(火)
場所を辿る旅(大田区南馬込4丁目37番地、大田区南馬込3丁目13番地-その2)
 ビニールシートで覆われた更地の隣は、白い二階建の民家で、ベランダの付いた二階のサッシ窓が春の日差しに眩しく光っていた。既に午後の日足は建屋の裾から白壁に影を這い上らせていたが、その黒い影の部分に目をこらすと、太い木の切り株があった。俺が住んでいた下宿は中庭を鉤型に囲った民家の2階で、母屋の玄関を入らずに裏木戸から庭に入ってそのまま下宿に上がる階段があった。その6畳の俺の部屋からは、縁側の瓦屋根越しに、柿かハクモクレンかの庭木が見えていた。太い切り株はその名残かも知れない。すると更地の隣に建つ白い家が、昔の大家の家の跡になる。その家の前まで行き門扉の脇に貼り付けられた住所表示を見る。「大田区南馬込4丁目 37-×」とあった。53年前の記憶の中に、朧ながらその数字があった。

 どれ程の時間、更地になった場所を見ていただろうか。一度は立ち去って小路の向こう端まで歩いて行ったのだが、思い返してまた戻った。そして再び更地の前に立ってその場所を見続けていた。それからしばらく経って、何かを吹っ切る様に大きく息をを吐いて、遙か昔に歩いた小路を、桜通りまで引き返したのである。

 堀川跡の散歩道(桜のプロムナードと看板に書かれていた)を龍子記念館まで戻り、旧川端画伯邸を囲んでいる塀に沿ってしばらく歩くと臼田坂に突き当たる。そこから50メートルほど坂を登り、途中から右に折れると、4階建ての都営南馬込3丁目アパートが並ぶ高台に出る。昔はこの敷地内で子ども達が大声を出して遊んでいる姿が見られたが、今は改装中らしく工事用のフェンスに囲まれた敷地は人影もなくひっそりと静まり返っていた。団地の境界に植えられた大イチョウとケヤキの数本は昔のまま残っていたが、無残にも強剪定で枝をズタズタに伐られて、何やらぽつねんとした姿で葉を落とした裸木を晒していた。
 道なりに都営アパートを半周して「右近坂」の急坂を下る。下り切った先の二叉路を左に進むと大倉山公園に登る階段の入口がある。更にその先を高いコンクリートの石垣に沿って進み右の道に入ると、今度ははっきりと分かる次の「場所」があった。「大田区南馬込3丁目13-××」。ごく僅かな期間だったが、生涯決して忘れることが出来ない記憶を刻んだ大森でのもう一つの場所だった。

 帰りは環八通りを横切って、山王の山の狭い住宅街の道を、右に左にと折れながら大森駅に向かった。八景天祖神社の坂を下ると駅前の池上通りに出る。既に午後4時半を過ぎていた。
 臼田坂下でバスを降りてから歩きに歩いて、さすがにくたびれた。駅前の珈琲店に入ってどっと腰を下ろす。気が付くと、店内にジャズの音楽が静かに流れていた。何やらスローテンポのジャズの音が、身にしみて心に響くのだった。

4丁目の「場所」        旧川端龍子画伯邸    都営南馬込3丁目アパート

  右近坂   大倉山公園から「3丁目の場所」を望む 神社の階段を下って大森駅へ

駅前の喫茶店でジャズを聴く(Ⅰ日目の旅終わる)

(2日目の旅に続きます。また後日アップします)
2022年3月11日(金)晴れ
葬儀を終えて
 昨10日に、環君の葬儀を済ませた。入院先の東京山手メディカルセンター近くの落合斎場で、Hさん親子、Y兄、それからまさに窯に入れる直前に突然現れて(本人は来ないと言っていた)「ああ、間に合って環の顔が見れた」と火葬場に倒れ込んだT姉と俺の5人だけの直葬(火葬と収骨のみの葬儀)だった。環君が生前俺やHさんに頼んだ事後処理は、自身の献体であり、もしそれが駄目ならば母親の郷里沖縄の海に散骨して欲しいということだった。癌が全身を蝕んだ体での献体は医学的に叶わず、本人が望んだ散骨も、実家のY兄いわく、「環は1才8ヶ月で母親に死なれ、3人兄姉の末っ子のために近所に長く預けられて育った。実家に戻っても直ぐに東京に出て行ってしまい父親とも縁が薄かった。俺は弟が気の毒でまた申し訳なく、せめて骨だけは両親の墓の中で一緒にさせてやりたい」とのたっての希望で、遺骨は長岡に持ち帰ることになった。
 しかし、予めY兄やHさん、それと葬儀屋さんの了解も得て、収骨の最後にポチ袋ほどの和紙封筒の中に環の遺骨(粉骨)をほんの少し入れて貰って預かった。いつか機会を見て、沖縄の海で環の願いを叶えてやりたかったからである。

 中野駅のホームで皆と別れて中央線高尾行の電車に乗った。そして下りた駅が国分寺駅である。昭和39年の春、越後長岡から上京してこの駅に下り立ち、大きな夢と希望に胸膨らませてその「場所」へと向かった18才の自分がいた。

 一人の男の一生を見届けたその日、たまたまそこからほど遠くない場所に、俺が青春のスタートを切った場所があった。東京都国分寺市泉町2丁目7番8号。中央鉄道学園大学課程学生寮富士見寮である。
 今その広大なキャンパスの跡地は、メインの「都立武蔵国分寺公園」と、それに隣接する「PARKCITY KOKUBUNJI]の8階建てのマンション群、「総務省情報通信政策研究所・統計研究研修所」の建屋、更には「東京都立多摩図書館」「東京都公文書館」の敷地に変っている。
 
  
(昭和39年当時の中央鉄道学園の広大なキャンパス。写真中央一番奥の4階建てが大学課程学生寮)
 その全てを歩いて見届け、国分寺の駅に戻った。そして駅からこの近くに住んで居るはずのI君に電話した。I君とは小学校時代から中学、そして高校3年までずっと続いた同級生であり、今も年に何回かは顔を合わせている親友である。何と!I君の最寄り駅はこの隣の駅だが、偶然にも今日は国分寺に来て、今駅前のバス停で帰りのバスを待っているところだと言うではないか。「エエッ!ジャスト・モーメント!今俺も国分寺駅に居る。すぐそっちに向かう。これから二人で呑もう!」何という幸運か!全く偶然とは思えない二人を引き合わせる何かの思し召しがあったようである。
 そして二人で、全く心おきなく、ゆっくりと手酌で酒を飲みながら、長かった来し方のあれこれを語り合ったのである。
 
2022年3月13日(日)晴れ
場所を辿る旅(大田区南馬込4丁目37番地、大田区南馬込3丁目13番地-その3)
 大森での「場所」を辿る旅は、2月24日に続いて翌25日もその場所へ向かった。初日の旅が夕刻前の短い時間だったこともあり、何処かを探し忘れたような一抹の心残りがあった。それで二日目は午前に自宅を出て、大森駅には正午前に着いた。
 
 駅前から池上通りのアーケード街をしばらく歩くと、古風な洋館造りのレストランが目に入る。昔は「葡萄屋」という洒落た焼き鳥店で、1度か2度か入ったことがあった。表の壁に貼り付けられた白い龍の絵の陶板やドア脇の「茶苑」と書かれた緑青の表札は昔のままだったが、店の名前が変っていた。やはり昔懐かしく、ドアを押して店に入った。一階奥に昔のままの大きなカウンターがあり、左に幅広の階段が2階に通じている。昼の日差しがたっぷりと窓から注いでいる2階席に座って少し早い昼飯を注文する。
 「昔は確か葡萄屋という店だったけど?」と尋ねると、「3ヶ月前にオーナーが変って、和と書いてなごみというお店になりました」と答えが返ってきた。
 
 店からは歩いて昨日の「場所」へと向かう。環八通りに掛かる春日橋陸橋をくぐり、大田区役所前(「大田文化の森」という名前に変っていた)を右折して臼田坂通りに入る。昔この通り沿いに小さな古書店があった。生活に窮したあげく中央鉄道学園時代に買い揃えた専門書の殆どを持ち込んで金に換えた。店主は、「いいですか。本はこのまま預かっておきますから、いつでもまた引き取りに来てくださいよ。」と俺を諭すのだった。その古本屋も無くなっていた。

 臼田坂下の信号を左に曲がり道の突き当たり手前が、日本画家の川端龍子記念館と1日3回時間を決めで案内するという邸宅跡である。当時は、記念館に入る余裕など全く無く、画伯の邸宅もコンクリート塀の外から眺めているだけだった。
 53年の歳月を経て記念館で絵を観賞した後、係の人に連れられて「大田区龍子公園」となった画伯のお屋敷に初めて入った。埼玉から来たという3人連れの女性と他の3人連れグループの6人の女性達と一緒に、ちょうど満開の白梅が匂う広い庭園の中の瀟洒な母屋と、離れになった大きなガラス窓のアトリエを見ることができた。

 
 川端画伯のアトリエ        川端龍子母屋
 川端画伯の邸宅を後にして、前日歩いた桜並木の通りから再び黄色い車止めポールが立つ小路に入った。それからまた昨日と同じ様に、黒いビニールシートで覆われた更地の前に立っていくらかの時間を過ごした。

 小路を引き返して桜通りに出る。道の向こう側は昔の堀川を暗渠にした散歩道で、所々にベンチが置かれている。小路の出口からほど近いベンチに腰を下ろして一息つく。そして再び小路に目をやってその曲り角を長い時間見続けていた。前日に探し忘れた場所が、そこだった。
 人にはちょっとした何気ない場所にも、そこに様々な思いと記憶を摺り込んで胸の中に留めておくことがあるのだと思う。それは当時の大倉山公園に沿った石垣の辺りだったり、大森駅のホームの端であったり、そしてまたこの小路に入る曲り角であったりする。
  
   桜並木通りと散歩道
 
   小路の曲り角 
 
 

 そこには今、広いエントランスのある白い3階建の建物が建ち、その角に当たる部分が小さな花壇になっていた。セージとローズマリーと、それにマホニアコンフューサの細長い葉が、西日を浴びてキラキラと輝いていた。53年前の懐かしい風景が、その小さな場所から鮮明に沸き立って来るのだった。
2022年3月15日(火)晴れ
場所を辿る旅(東京都国分寺市泉町2丁目7番8号)
 雪国の越後長岡から上京し、この国分寺駅に最初に下り立ったのが昭和39年の春。その時から58年の歳月が経ったことになる。当時の平屋建の国分寺駅は郷里の田舎駅と殆ど大差なく見えて、「こんな小っちゃい駅が将来の国鉄幹部を育てる学校の玄関口とは!」とがっかりした記憶がある。それが今や大勢の乗降客で賑わう大駅舎となって、何やら戸惑いながら南口に出た。駅前ロータリーの右端に三石堂書店の看板が目に入る。当時もこの場所に本屋があって常連客だった。ロータリーから南西に延びる多喜窪通りを歩いて野川を越えると、そこからは石垣に沿った登りの坂道となる。登り切ったその先からが広々とした公園になっている。「都立武蔵国分寺公園」。俺が2年間を過ごした旧国鉄の中央鉄道学園の跡地である。
 中央鉄道学園は、全国から幹部候補職員を集めて養成する旧国鉄の専門学校で、普通課、高等課、大学課程の約1000人が全寮制の同じキャンパス内で暮らしていた。その中で大学課程は5科8クラスの専門課程に分かれており、高校からストレートで入った受験組と現場から選ばれた推薦入学組の合わせて約500名が2年間の寮生活を送っていた。

 公園最初の入口(泉・南東口)を通り越して、旧学園の正門があった所から園内に入る。直ぐ左に守衛室があり右手に本館があった。正門から本館前までは大きな車止め広場になっていて何本かの背の高い松とヒマラヤスギの木立があったが、記憶に残っているヒマラヤスギが遙か昔の名残を留めて威風堂々と聳え立っていた。
 
武蔵国分寺公園泉南東口
 
恩師・星野守之助学長
 
名残りのヒマラヤスギ
 
旧中央鉄道学園の正門・本館

 本館2階に応接室を兼ねた広い学長室があった。当時の学長はおやじが所属する新潟鉄道管理局長から転任したばかりの星野守之助学長。受付に秘書の鈴木悦美さんがいつもニコニコと控えていた。
 守衛室のあった辺りに蒸気機関車の動輪を形取った記念碑があった。そこに当時の中央鉄道学園の全景写真と次のような顕彰文字が刻まれて嵌め込まれていた。
 『記念碑の由来  国分寺市は、(中略)鉄道との関連が深い町でもあります。かつてこのあたり一帯には旧国鉄の中央鉄道学園があり、数多くの人がここで学び、その技術が現在のJRに引き継がれています。これを後生に伝えたいと願う関係者の熱意により、ここに鉄道のシンボルというべき蒸気機関車の動輪をモチーフとした記念碑が設置されました』
 本館の後方に教室棟が並び、その東側に大学課程学生寮に向かう構内道路があった。この道路脇に診療所と寮生の食料や日用品を販売する物資部があった。

 茶色く冬枯れた広い芝生広場の中に点々と、学園時代の名残を留めて巨木となった樹木が聳え立っていた。桜の木はもはや幹回りが二抱え三抱えもありそうな老木となり、ユリノキやアサダは天を突く高さになっていた。そしてこの公園の周囲500メートルが遊歩道になっていて、その東端の遊歩道は正門から学生寮に向かう構内道路だった辺りである。

円形の広い芝生公園。周囲500メートルの遊歩道がある。(旧本館と教室、実習室の跡)

 学園生活の2年間、何故か俺は星野学長に本当に可愛がられた。学長に誘われて雲取山登山や塩沢にある禅寺雲洞庵に一泊して金城山などにも登り、山仲間で有名な高波吾策さん(谷川岳吾策新道の開拓者)の山荘に泊まって一緒にスキーもした。学長の自宅に招かれてはご馳走に預かり、ご令嬢がピアノ演奏をしてくれたことなど、決して忘れられない思い出である。当時の学長と俺との連絡役が秘書の鈴木さんだった。携帯電話など無い時代ゆえ、本館からこの構内道路を歩いて学生寮までやって来て「学長がお呼びですよ」と俺に告げる。そして俺を連れて学長室に向かう途中ですれ違う寮生達にとって、目の前の若いオンナ株はオミクロン株以上に刺激的で、すっかり抵抗力も失せてあえなく呆然自失してしまうのである。日頃のジェントルマンが構内では目にしたこともない美人と寮生のアベックに「エ~ッ!アレレ~ッ!」と野卑な雄叫びを上げるものだから、悦美女史もこれ見よがしに俺に腕を絡めたりして反撃する。まだ二十歳前そこそこで、俺の恥ずかしさったらなかった。

 この遊歩道の先は泉・北東口の公園出口となる。その先は「
PARKCITY KOKUBUNJI」の8階建てマンション群が円形公園との境界からJR中央線の線路脇まで続く。当時4階建ての大学課程学生寮はこのエリアにあった。「東京都国分寺市泉町2丁目7番8号 中央鉄道学園富士見寮」。俺が青春真っ只の2年間を過ごした「場所」だった。学生寮の隣が大食堂、さらにその先に浴場があった。マンションの敷地はその辺りまで続いていた。
 
旧国鉄中央鉄道学園の(左から)教室・大学課程学生寮・食堂
 浴場の先からが学園キャンパス内の体育施設やクラブハウスのエリアとなる。先ず柔道と空手、剣道の武道館、その前には水泳プール、武道館の西側が芝生の築山になっていてそこにクラブハウスがあった。そのクラブハウスでは、全国から集まってきた土木科35名の我が同志が酒を酌み交わし、国鉄の未来を熱く語り、高らかに寮歌を歌って気炎をあげていたのである。そのベランダからは広いテニスコートが目の前に見えた。そしてクラブハウスとテニスコートの西隣からはアンツーカーの陸上競技場と野球場が広がっていた。2学年の年に全校生徒学生約1000人で組織する自治会の体育部長に立候補した。テニス・バレー・サッカー・剣道・空手・水泳・陸上競技・何なに・・・と合計15の体育班グループを統括し、このプールと陸上競技場で水泳大会や秋の大運動会の指揮をとった。若干二十歳で、全国からこの学園に入って来た鉄道公安官やポッポ屋などの猛者連中も含めて、騎馬戦やマスゲームの練習でムチを振るったのだから、今から思えば大した度胸だった。
 今、クラブハウスや体育施設のあった辺りは、
「総務省情報通信政策研究所・統計研究研修所」の建屋と、「東京都立多摩図書館」「東京都公文書館」の敷地になって昔の面影はない。

旧学園キャンパスのクラブハウス・テニスコート・陸上競技場・野球場と跡地の総務省研究所と都立図書館

 この学園を卒業し、最初の赴任地の東北で実に恵まれた1年を過ごした後、国鉄を辞めた。その報告をお世話になった星野学長にすべく国分寺に戻り学長室の扉を叩いたが、鈴木悦美秘書から学長の不在を告げられた。会えなかった、のではなく、会わせてもらえなかったのだと思う。あれほど可愛がってもらった恩師と国鉄とを裏切ったからである。

 人はどんな生き方をしても悔いは残るのだと思う。鉄道の線路工夫で生涯を終えたおやじを悲しませ、師弟の関係を越えて親身になって俺を可愛がってくれた星野学長を裏切ったことへの悔いが、あの日から55年の歳月が経った今でも、胸の中の澱となって残っているのである。
2022年3月29日(火)晴れ
おやじ山春近し(近況報告)
 3月17日におやじ山に入った。車を停めた麓の東山ファミリーランドの積雪は50センチ程だったが、見晴らし広場からは俄然積雪が増えた。75ℓのリュックサックに欲張って酒やらビールやらの重量物を満タンに詰めてスノーシューで歩行したものだから、まさに歩行は難渋を極めた。麓から1時間以上も歩き続けておやじ山に着いたが、入山当時の積雪は1メートル程だった。
 
 入山してから今日で3度目の買い出し下山である。前回の下山は26日で、石地海岸の雪割草の湯で垢を落とし、スーパーで食料を買い込んで夕方近くに小屋に戻った。その頃から生暖かい強風が吹き始めて見る見る百年杉を揺らす程の暴風となって一晩中吠え続けた
 翌27日、おやじ山の雪は一晩で30センチ以上も減って、その残雪の上に大風で折れた杉枝が散乱し、吹き飛んだ戸板やら洗面器やら、長靴、傘、バケツ、桶と散らばって、随分乱暴な春の訪れとなったのである。3月26日を境に、おやじ山の冬が終わり春到来である。

 今日の下山時、山の斜面のまだら雪が春の日差しに穏やかに映えて、俺が一年で最も好きな雪国の早春の風景だった。毎年おやじ山で子育てをするフクロウも昨晩は頻りに啼いた。おやじ山は冬の装いを解いて、足早に春を呼び込んでいる今日この頃である。

     入山時のおやじ小屋と        風の小屋              健介さんが湯たんぽを持って来てくれた

 現在のカタクリ広場(積雪60センチか)
2022年3月30日(水)晴れ(温かい春日)
おやじ山の早春(クロサンショウウオの大産卵)
 今朝起きておやじ池を覗いたら、思わず「オッ!」と声を上げてしまった。クロサンショウウオの新しい卵塊がびっしりと池に産み付けられていた。クロサンショウウオは必ず2個つづ1ペアで産卵する。新たな卵塊を数えてみると、30ペア60個程もある。一度にこれほどの大産卵は恐らく初めてである。

 今日は穏やかな春日の一日だった。入山以来初めてカスミザクラの斜面を下りて谷川沿いの雪原を歩いた。地肌の出た所にはフキノトウが顔を出し、キクザキイチゲの可憐な花びらが迸る谷川のしぶきを浴びてビリビリと震えていた。

おやじ池にクロサンショウウオ大産卵(4月30日4回目の産卵)          谷川のキクザキイチゲ

           
おやじ沢の風景            マルバマンサク