2022年2月6日(日)晴れ後曇り |
「場所」(瀬戸内寂聴著)からのヒント |
昨年の正月以来、「断捨離」と称して自身の身の回りのものを捨てたり売り払ったり、また山に持って行って焼却したりしてきた。ビジネススーツやネクタイは濃紺の1着のみを残して古着屋に引き取ってもらい、本棚に山と積み上っていた書籍類は少しづつ資源ゴミに出して始末している。
古くからの年賀状や現役時代のビジネス手帳はスッパリその全部を、手紙やはがきなども、思案に思案を重ねた末の「止むに止まれず」の数通、数枚を除いて、昨年春のおやじ山入り直後に薪かまどで灰にした。(止むに止まれずもそのうち焼却処分予定である)
問題は何十年も前からつけていた日記である。これも現在つけている1冊を残して、過去の全ての日記帳を段ボールにギュウ詰めして山に運んで燃やすつもりだった。ところがいざ燃やす前にと段ボールから1冊を手に取って読み返してみると、拙い手書き文字に書き出された当時の悲喜こもごもが、癖字そのままの自身の感情と匂いを伴ってページから鮮烈に立ち上って来るのである。
それで、「さあて、今燃やしてしまうのも何だなあ・・・」と未練たらたらとなるのである。
日記は俺自身のために書いてきたのであって、俺が死んだあとに遺族に読んで貰おうなどと夢にも思ったことはない。自分の弱さ丸出しの手記など、とても恥ずかしくて家族に見せられたものではない。
それではどうするかと思案してた中、昨年の11月11日に99才で亡くなった瀬戸内寂聴の「場所」を読んだ。作家自身がが77才から78才の時、父母の故郷を訪ねて自身のルーツを辿る旅から始まり(「南山」「多々羅川」)、夫と娘を捨てて出奔した「名古屋駅」、そして「三鷹下連雀」「西荻窪」「○○」「・・・」と、そこで作家が住まい暮らした場所を改めて訪ねることによって過去を物語り、自身の来し方を再構築した「私小説」である。作家はこの作品によって野間文芸賞を受賞している。
なるほど、自身の人生をこういう記述方式で転化することもできるのか(ならば過去の日記も未練なく焼却できると)と、寂聴さんからヒントを貰った気がした。
瀬戸内寂聴さんの実物は1度だけ国会前の安保法制反対デモ会場でお見受けしたきりで、作品に触れたのも、亡くなられてから新聞などでいろいろ書かれて、「それなら俺も読んでみるか」と(「場所」「夏の終わり」)つい最近からの読者だが、こんな「正直」な作家がいたのかと今更ながらの驚きだった。
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