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2021年8月10日(火)晴れ
「TOKYO2020」の真のレガシーとは・・・
 8月8日、「TOKYO2020」オリンピックが閉会した。五輪開催期間中、何種目かの競技をテレビ観戦したが、見ながらも様々な思いが交錯して、あやふやな気分というか、何やらシラけた雰囲気で17日間を過ごした。

 思えば、俺が高校を卒業して東京に出た年の1964年、国分寺にある学生寮で友等と観た「東京オリンピック」の熱狂と感動を思うと、当時との感情の落差に長嘆息を禁じ得ないのである。
 夢膨らませて上京した18歳の無垢な青年と、様々な矛盾と苦汁の澱にまみれた75歳の老いた心とでは、当然の気持ちの隔たりかも知れない。

 今日10日の新聞に、歴史社会学者の小熊英二は次のような趣旨のことを書いていた。

 (しかし、)歴史的に考えれば、1964年は、先の戦争で世界との国交を失った日本が、IMF(国際通貨基金)八条国となり、OECD(経済協力開発機構)への加盟を果たして、ようやく「先進国」の仲間入りを果たした年である。戦争で破壊された生活もやっと回復し(日本の国土に初めて新幹線が走り)、人々の気持ちは未来を向き、外に開かれようとしていた。

 「TOKYO2020」オリンピックは、こうした64年の栄光を夢見て招致された。だが64年と今回のオリンピックとでは時代も社会的状況も違う。五輪そのものも商業主義的になった。選手とスタッフは困難な状況下でも健闘したが、コロナ禍がなかったとしても、64年と同等の印象は残せなかったろう。
 その上今回の五輪では、大会エンブレムの盗作疑惑からの撤回、国際コンペで決めた新国立競技場の設計の撤回、JOC会長の贈賄疑惑による退任、大会組織委員会会長や開閉会式演出担当などの辞任や解任があいついだ。それぞれの経緯をみると、これらは日本の関係者の「内輪」ならあいまいに済まされていたかもしれない問題だ。しかし情報化とグローバル化が進んだ現代では、事態はすぐに国内外に拡散してしまう。

(中略)そして最後にこう述べている。
 21年の五輪は、過去を夢見て始まり、「内輪の論理」が現代に通用しないことを露呈させた。ここから何を学び、未来にどう活かしていくか。それを考えることが「TOKYO2020」の本当の遺産となるはずだ。

 ここ藤沢では、オリンピック閉会の前日から雲行きが怪しくなり、閉会日の8日、そして昨日と激しい雨となった。まるで今回の五輪狂騒曲の熱暑を冷ますかのような降り方だった。

 そして昨9日の「長崎原爆の日」。平和祈念式典で92歳の岡信子さんが、声を震わせながら力強く「平和の誓い」の最後にこう述べた。

 「私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。」
 92歳の被爆者のこの闘魂と叫びこそ、オリンピックに勝る勇気と感動、そして希望とを、視聴者に与えてくれたと確信している。
2021年8月21日(土)晴れ
シモーヌ・ヴェイユ(仏哲学者)の言葉から考えること
 8月20日の朝日新聞に長谷部恭男(早稲田大教授)&杉田敦(法政大教授)&加藤陽子(東京大教授)の3者対談が載っていた。(新聞見出し:「コロナ対応・五輪強行 大戦時と重なる政府」)
 この中で長谷部教授が、(杉田氏の「東京オリンピックが慎重論を押し切って開催され、新型コロナウィルスの爆発的感染拡大を招いた現象を、無謀な作戦で多数の犠牲者を出した太平洋戦争末期になぞらえた」ことや、加藤氏の「菅義偉首相が楽観論に流れて判断を誤るのは(彼自身の資質にもよるが)東条英機内閣が対英米開戦を決定する際に御前会議にあげたデータが、開戦に前のめりの人物がその手下に作らせた不適切なデータだったことと同じく、都合のいいことしか聞かなくなった為政者のもとに、本当に正確なデータを上げる人物がいない、という日本の統治システムの宿痾(しゅくあ)」との発言を踏まえて)フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの著書から「人間は執着に弱い。何かに執着すると幻想が生まれ、その幻想によって「きっとうまくいくはずだ」と自分の願望を正当化しようとする」を引いて、
「オリンピックへの執着によって何が現実かを見ることができなくなるから、正しく考えることも正しく判断することもできない」と述べていた。

 さて、越後がふるさとの俺にとって、毎年のお盆の墓参りは欠かせない行事の一つだった。毎夏おやじ山で過ごすようになったここ数年は、気軽にお盆の墓参りができるようになって、これが済むと「やれやれ一仕事終わったなあ」と、大いに安心した気分になる。
 しかし今年の夏だけは違った。7月末にようやく2度目のワクチン接種を終え、「さておやじ山に戻るか」と準備していた矢先に、首都圏に感染爆発が発生した。そして、神奈川と新潟双方から県をまたぐ往来に厳しい自粛が求められ、ふるさとの人たちにゆめゆめ不安や迷惑はかけたくないと、いまだ自宅で籠もりっきりの生活を余儀なくされている。
 そんな最中、郷里の友人から19日付の新潟日報記事が届いた。「フジロック開催 期待と不安の中 2年ぶりに開催」とある。(8月20日~22日、新潟県湯沢町苗場スキー場で開催)
 先に、9月17日から3日間開催予定の「長岡米百俵フェス」に反対する意見書を長岡市長宛送っていたが、郷里の友人らは、米百俵フェスより遙かに大規模なフジロックの開催が、続く米百俵フェス開催にお墨付きを与えることになる、と言うのである。「なるほどそうか」と激しい憤りと失望を禁じ得ないのである。

 まさにシモーヌ・ヴェイユの言葉や長谷部教授の指摘通り、今や災害級のコロナ禍でのフェステバル開催強行は主催者側の執着の結果である。それが幻想を生み、何が現実かが見えなくなるなかで「きっとうまくいくはずだ」と自己の願望を正当化している愚を、行政は他人事と傍観しているのではなく、しっかり正す責任と義務があるはずだ。
2021年8月29日(日)
誕生日に思う「ふる里」
 今日76歳の誕生日を迎えた。
 コロナ禍で藤沢の自宅で蟄居暮らしを続けながら、満杯になった書架の本を廃棄したり、古い写真を整理したりの毎日である。いわゆる終活にいそしんでいる訳である。

 首都圏がコロナ感染爆発となった現状では、おやじ山にも戻れず、毎夏恒例の盆の実家の墓参りも叶わずで、古い両親の写真や、ガキの頃の写真をしみじみと眺めながら(これだからいっこうに終活が進まない)、頻りにふるさとの夏が思い起こされてしかたがない。

 書架の整理をしながら、哲学者の内山節の著書「里の在処(ありか)」を何げなしに抜き取って、読んでみる。(こんな調子だから整理が進まない)

 『「ふる里に帰る」「田舎に帰る」の「里」とは、魂が帰りたがっている場所であり、「田舎」は単なる農山村ではない。私たちの社会では、「帰る」とは、やりなおす、元に戻す、という意味をもっている。「ふる里に帰る」という言葉もまた、帰ることによって人生をやりなおす、自分の存在を替えるという意味をもっていたはずである。だとすれば、帰る先である「ふる里・故郷」とは人生をやりなおすことのできる場所、魂が元に戻ることのできる場所、だったのである。』

 俺にとっての夏、とりわけ8月は、良きも悪しきもガキの頃の自分や、その頃の様々な情景が、独特の匂いで立ち上がってくる月である。それだけガキの頃の俺の思い出(記憶)は、夏の季節に凝縮されていたのだと思う。それらは限りない懐かしさと同時に、やるせなくて泣きたいような哀情が混じった不思議な愛おしさに包まれた感情なのである。

 「我がふる里」の意味を説明することは難しかった。しかし「里の在処」を再読して、「魂が元に戻ることのできる場所」とあって、これは当たっている気がした。

 今年、実家の墓参をパスしたことによって、意識的に今までのふるさとが遠のいた。そして新たな俺自身のふるさとを作りたいと思うようになった。そこにはおやじの存在と同時に、短くも懸命に家族を守り寄り添って生きたおふくろの姿も確かにあるように感じ始めている。
 新たな俺のふるさと作りに、早く山に帰りたいと思うこの頃である。

 今日の「朝日俳壇」から

   蝉時雨故郷の水車今ありや(静岡市 菊川武二)

   接種終え命惜しむや蝉しぐれ(横浜市 細野八重子)