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2021年3月20日(土)曇り
早春の山入り(三ノ峠山から萱峠ルートを歩く)
 2月25日に山入りして、今月(3月)12日までおやじ山で過ごした。今は一時帰宅中である。
 こちら(藤沢)での用事が終わったら、急いで山に帰りたいと思っている。俺が山に入った2月の終わりはまだ冬の季節で、山道の雪の吹きだまりでは1.5~2メートルの積雪、小屋回りでも1メートルほどの雪が残っていた。ところが長岡の仲間からの直近の情報だと、小屋回りの雪はすっかり解けて、春がもうそこまで来ているというのだ。フキノトウやコゴミも顔を出し始めただろうし、気が急いて仕方がない。

 今回の山入りは、積雪期の間にキノコのホダ木用のコナラを何本か伐り倒すのが主な目的で、3月1日には地元の仲間たちが山に集まってくれて、3本のコナラの伐倒と玉伐りでホダ木を30本ほど作ってくれた。これで一安心したのだが、山に居れば居たであれこれとまた仕事ができて、グズグズと滞在が長引いた。

 それで下山が決まった前日の3月11日に、せめてこの積雪期に近くの雪山を歩いてみたいと、早朝小屋を出て黄土沢向こうの雪斜面を這い登って三ノ峠に向かう赤道ルートに出、三ノ峠山の頂上から南東方向の萱峠を目指した。
 三ノ峠で1メートルほどだった積雪は、30分も歩かないうちに倍近くとなり、2つの小さな杉林を抜けて美しいブナの森に着いた地点では2.5メートルはあっただろう。この冬期ルートは数年前に新潟の兄と凍み渡りで辿ったルートで(この日はカンジキ履き)、雪山散歩には絶好の日差しを浴びながら、ブナの木の深い大きな根回り穴を覗いてみたり、主峰鋸山から連なる純白の東山連峰の勇姿を何度もスマホで撮したりしながら、大自然の美しさに何度も酔いしれたひとときを過ごした。

 まさにアイルランドの詩人オスカー・ワイルドが言ったように、
 芸術が自然を模倣するのではない。自然が芸術を模倣するのである
 自然こそ、最大の芸術家であるということか。



 

2021年3月26日(金)晴れ
サクラに寄せる日本人の「美しい情緒」(もののあわれ)
 カミさんが数日前から病院通いをしており、殊勝にもその運転手を務めている。今日はポカポカ陽気に誘われて、病院帰りに大庭城址公園に寄って花見をした。例年なら多くの客で賑わうこの名所も、さすがコロナ禍で、今日は保育園児や学童たちの団体とまばらな一般客で、落ち着いたサクラ見物となった。

 そこで思い出したのが、かつて読んだ数学者の藤原正彦著「国家の品格」である。
 以下、その要旨の一部である。

『古来、日本の美しい田園風景や里山の景観が、「日本の美しい情緒」を育んできた。これは日本が生み出した最も大きな普遍的な価値で、「もののあわれ」・「自然への畏敬の念」・自然への繊細で審美的な感受性といった、欧米人にはない、日本人独特の感性である。』 
*もののあわれ:悠久の自然と、はかない人生との対比のなかに美を発見する感性
*自然への畏敬の念:自然は神であり、人間は偉大な自然の一部に過ぎない

そして次のような例を引いている。
『日本人の花見客は・・・
たった3,4日に命をかけて潔く散っていくサクラの花に人生を投影し、そこに他の花とは違う格別の美を見い出している』
『対してアメリカ人は・・・
ワシントンのポトマック川沿いに荒川堤から持って行ったサクラが咲くが、「オー・ビューテフル」と眺める対象にしか過ぎず、そこにはかない人生を投影しつつ長嘆息するヒマな人などいない』
『ドナルド・キーンは、これは日本人特有の感性だと指摘し、ラフカディオ・ハーンも、「欧米人においてはまれに見る詩人だけに限られた感性を、日本ではごく普通の庶民でさえ当たり前に持っている」と絶賛』

 そして藤原がこの著書で提起した問題とは、
『資本主義のグローバル化で、市場経済は社会を少数の勝ち組と大多数の負け組に分断し、殺伐とした社会が出現した。金銭至上主義が主流となり、規制緩和で入ってくる安い輸入品で農業に見切りをつける人が増え、田園はどんどん荒れてきた。今の日本は、美の源泉である田園が荒れ、跪くのは自然にではなく金銭の前、学校では役に立つことばかり追い求める風潮に汚染されている。
 その結果、日本の至宝ともいえる「もののあわれ」や美的感受性などの「美しい情緒」が危殆に瀕している。』