2021年1月1日(金)晴れ |
山旅の断章(その1) |
いささか慌ただしいかった2020年の年の暮れが終わって、静かな新年を迎えた。
あけまして おめでとうございます!
3日前(12月29日日)に、四国愛媛県と中国地方(広島、山口、島根の3県)の山々を巡る森林調査の仕事から帰ってきた。先月は静岡県と近畿地方に次いで3度目の出張で11日間の長丁場だったが、相棒のKさんのお陰でケガや体調を崩すこともなく無事に仕事を終えることが出来た。
昨年は10月末におやじ山暮らしを切り上げ、11月から例年の森林調査の仕事に就いた。なかなか忙しくて(というか、まあサボってて)ホームページを更新できなかったが、これから3月中旬までは時間があるので、少し挽回してアップしていきたいと思う。先ずは11月からの山旅で出会った断章(風景のカット)である。
<東北の山旅>11月11日~14日
東北はKさんと何度か回ったが、津軽半島に踏み込んだのは今回が初めてだった。太宰治の故郷であり「津軽」は俺の大好きな小説である。津軽半島平舘灯台から陸奥湾越しに下北半島を望む。
(以下、後日アップ)
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2021年1月4日(月)晴れ
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山旅の断章(その2) |
穏やかな正月三が日が終わった。
毎年新年には息子家族が来訪し、孫たちにお年玉を渡したり皆で正月料理を囲んでワイワイやるのが常だったが、今年は息子一人が車でやって来て、家には入らず、玄関先で息子からの土産を受け取ったり、こちらで用意したあれこれを渡したりと、束の間の親子会話だけで息子を送り出した。
恒例の2日、3日の箱根大学駅伝の沿道での声援も今年は止めて、テレビ観戦した。生とテレビでは興奮度が歴然で、ちっとも面白くなかった。
そして今日からが、現役の皆さんの仕事始めである。俺も、今朝はガバッと早起きして、朝酒、昼酒もぱったり止めて始動開始である。それで前回からの続き、「山旅の断章(その2)」である。
<北陸・長野の山旅>2020年11月21日~25日
北陸の山旅は福井からスタートした。そして能登半島、富山、飛騨地方と渡り歩き、最後は木曾の御嶽に踏み入って富山に戻った。
思えば、1986年1月、会社の辞令で富山勤務となった。それから丸3年、悲喜こもごもの富山での生活だった。この旅の途中、富山市内に宿をとった少しの空き時間に、3年間家族と一緒に過ごした富山の家(借り家)を見に行った。当時の家の前は田んぼで、夏の夜にはホタルが舞い、すぐ近くに富山駅から立山に向かう富山地方鉄道の軌道が走り、そして宮本輝の小説の舞台となった「螢川」(いたち川)が流れていた。当時の家は改装されていたが面影はあり、じっと見ているうちに涙ぐんでぼやけてくるのだった。
白山の登山口 旧白峰村(石川県) 能登半島輪島の朝市(新鮮なズワイガニが並ぶ)
信濃川最上流梓川(松本市奈川) 御嶽山登拝者の水行場「清滝」(長野県木曽郡玉滝村)
富山平野から見た立山連峰(富山から奥飛騨へ向かう途中の国道41号線沿いから)
家の前の田んぼは駐車場になっていた。地鉄が走り、川流れる。小説「螢川」の舞台「いたち川」。35年前のあれこれが彷彿と蘇って、思わず涙ぐんでしまった。
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2021年1月5日(火)曇り |
山旅の断章(その3) |
<静岡の山旅>2020年12月1日~5日
13年来の森林調査の仕事で、静岡県内の山々には何度となく足を運んだ。それで分かったことは「静岡県は森林王国である」という新たな認識である。その広大な森林に降り注いだ雨が、県内の大地を深くえぐり、切り刻みながら駿河湾と遠州灘に流れ込んでいる。東から順に、富士川、阿倍川、大井川、天竜川と、名だたる大河の揃い踏みである。
山が奥深く、さらに急峻であるがために静岡の調査は困難を極める。今回も厳しいポイントへの侵攻に苦しんだが、一日の仕事が終われば、Kさんのお陰でホット一息のシーンに出会えた。
<昇る朝日が水面を染めて浜名湖を優しく目覚めさせる(湖畔のホテルの部屋から撮す)>
<下:浜名湖産の海苔販売店(絶品の土産ゲット)> <下:由比漁港の朝。前夜は名物桜エビ三昧の宿夕食を堪能>
<左:仕事が終わっての帰途、まるで昔の銭湯のペンキ絵のような富士山に出会った。(静岡県田方群函南町)
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2021年1月6日(水)晴れ |
山旅の断章(その4) |
<近畿の山旅>12月7日~11日
静岡の出張から帰り、中1日おいての近畿地方への出張だった。12月7日、京都駅でKさんと合流し、すでにKさんが予約してあった四駆レンタカーを借りて一気に高野山まで走った。初日の宿は宿坊西禅師である。
翌朝6時半、西禅寺本堂での朝の勤行に参加した。僧侶4人が祭壇前に鎮座し、宿泊客は後方の堂間に並べられた椅子に座る。4人の僧侶が綺麗に声を揃えて読経が始まった。
♪エテ~エテ~エテ~エテ~~「ゴ~ォォ~ン!」(鐘 カネの音)。
♪×△×▼□・・・「チリィ~ン!」(五個鈴 ゴコレイの音)。
♪×××××・・・「ジャ~~ン!」(鉢 ハチの音)。
テノールあり、バリトンあり、渋いダミ声ありのお経の合唱にすっかり酔ってしまった。宿泊客も一人ずつ焼香して30分で勤行は終了した。
2日目は一度奈良県を迂回してから和歌山県に再び入り、3日目は和歌山から三重県へ。4日目、三重から滋賀県へ。そして5日目の最終日は、琵琶湖大橋を渡って滋賀県から京都府に入った。
この日最後の調査を終えて再び京都駅に帰る途中、何度か躊躇したが思い切って車を降りてKさんと別れた。もう一度、どうしても訪ねておきたい場所があった。その場所は俺が20代のはじめ、わずか1年だったが過ごした所だった。Kさんが運転する京都駅に向かう車のナビ画面のルート上に、その町名を垣間見た時、この機会を逸してはもう二度とこの場所へは来ないだろうという思いがしたのだった。その場所は、銀閣寺へと通じる「哲学の道」にほど近い一画にあった。(後日、「森のパンセ」でこの事を書きたいと思います)
以下、5日間の旅の風景の切り取りです。
高野山 西禅寺 高野山 根本大塔 高野山奥之院参道の大杉
<奈良名産の柿棚(標高400m)><桶工場「桶濱」(和歌山県田辺市中辺路町)ご主人松本濱次氏とツーショット>
<熊野巡礼の最終地「熊野本宮大社」に参拝する(和歌山県田辺市本宮町)>
<京・洛北大原の生たまご飯屋「はんじ」700円の絶品昼飯だった><「女ひとり」の歌碑(三千院道)>
<三千院(恋に疲れた女?残念、探したけど・・・)><「哲学の道」(琵琶湖疎水に沿って銀閣寺道から続く散策路。この道を何度さまよい歩いたことか・・・)
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2021年1月11日(月)曇り |
山旅の断章(その5) |
新型コロナ第3波の猛威が続いている。7日、首都圏の1都3県に緊急事態宣言が発出されたが、日々の感染者数を見ている限り、1ヶ月やそこらで沈静するとはとても思えない。
ここ10年で日本は、「地球温暖化」「原発事故と放射能汚染」そして「新型コロナウィルス」と、かつて経験したことのない「目に見えない脅威」に晒されている。これら3つの脅威に共通するものは何かと考えた時に、明確に思い当たる事が1つある。文明の名のもとに地球にダメージを与え続けてきた人間の傲慢さの帰結ではないのかと・・・脅威の根っこは皆同じではないのかと・・・
ということで、「山旅の断章」は今回で最終回である。
<愛媛・中国地方の山旅>12月19日~29日
久々の長丁場の出張だったが、過去の調査で訪れた場所やお世話になった旅館などもあり、今回の旅が最後になるかも知れないと考えると、記憶にしっかりと留めておきたい気持ちになった。
林芙美子の「放浪記」は小説で読み、東京有楽町にあった「芸術座」で森光子主演の同じ舞台を3回も観たが、今回の旅の途中で作家(主人公)の故郷尾道に立ち寄ることができて、遙か昔の思い出に懐かしく辿りついた次第である。
伊予鉄高浜線梅津寺駅(松山市) 海岸線走る伊予鉄電車 松山市内を走る市電
大正14年創業の活動写真館「旭館」(愛媛県喜多郡内子町) 石垣の村(愛媛県鬼北町)
石垣の棚田(愛媛県鬼北町) 四国の名峰「石鎚山」 しまなみ海道「来島海峡大橋」
坂の町尾道「千光寺新道」 「放浪記」の作者、林芙美子像
湯村温泉湯乃上館(島根県雲南市) 西条酒蔵通り(東広島市) 広島市内を流れる京橋川
浜田漁港(島根県浜田市) 最後日、「出雲大社」で旅の無事御礼と新年の無病息災を祈願
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2021年1月27日(水)曇り |
やくみつるさん、ごめんなさい!パクリました。 |
新型コロナの感染拡大が止まらない。家でジィ~と過ごしている毎日である。
それで今日は手慰みに筆を持って習字の練習でもしようかと・・・
しかしただ字を書くだけでは面白くないので、1月21日の朝日新聞に載ったやくみつる氏の風刺漫画を「模写」することにした。腹を抱えて笑った漫画で、沢山の人に教えたかったのだが、転載は禁止行為だしと・・・それで今日はやくみつる氏へのリスペクトを込めて、いわゆる俺の「写経の練習版」(又はパロディ)ということで、どうかご勘弁を。
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2021年1月31日(日) |
「主語」を担う意志-今朝lの新聞を読んで- |
毎年の森林調査の仕事で、広島市内で宿をとることが何度かあった。そのたびごとに、時間をみつけては、広島平和記念公園に足を運んでいた。ある年は宿に荷物を置いてすぐにタクシーで駆けつけたり、またある年は、朝薄暗いうちに宿を出て、長い散歩の末lに公園にたどり着いたりした。そして必ず訪ねたのが、左写真の原爆死没者慰霊碑だった。ここには次の文字が刻まれている。
安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから
今日の新聞を読んでいて、この誓いの主語は誰なのかという「よく知られた」論争があったと知ってビックリした。浅学にしてこんな論争があったとは知るよしもなかったし、この前で手を合わせながら「主語は誰か?」など考えもしなかった。
因みに今朝の新聞の趣旨は次のようなものである。(「日曜に想う」<核廃絶へ「主語」を担う意志>(朝日新聞編集委員福島申二)
『今月22日に国連ですべての核兵器を違法とする核兵器禁止条約が発効したが、米国の「核の傘」を理由に日本政府はこの条約を拒み署名していない。「核保有国と非保有国の橋渡し役」という日本の首相がよく口にする決まり文句も、唯一の戦争l被爆国lながら条約に背を向ける政府の、いわばアリバイの壁として使われてきた感がつよい。(※そしてこの原爆死没者慰霊碑に刻まれた誓いの主語は誰なのか、という論争があったと書いてあり)今は、主語は「人類」ということで多くに受け入れられているようだ。日本政府は、人類が過ちを繰り返さないためにも、核廃絶への「主語」を担う意志をもっと強く持つべきではないか。』
この論調は、もちろん同感である。そしてここに書いてあった、碑文の主語が「人類」ということも、そう言われてみれば収まりがつく感じもする。しかし・・・俺が何度もここに来て手を合わせながら誓ったことは、俺の意志、自分自身の決意を、この刻まれた言葉に載せて祈ったのだ。つまり主語は俺だった。だからこそ、一人でも多く、特に日本の政治を司る人たちにここに来て、自分のこととして誓って欲しいと願ったのだ。
今、コロナ禍のなかで思っていることがある。地球温暖化や福島第一原発事故の大惨事、そして野生動物起源のヒトへの感染症、これらすべて自然への畏敬を失った人間の驕りが招いたものだ。生物学では、現在名前がつけられている生物は180万種ある。ヒトはこの1/180万の存在でしかない。さらにこの地球上では、まだ確認されていない未知の生物が数百万種とも数千万種とも言われている。長い進化の過程で様々な種同志で互いにバランスを保ってきた「共生」の視点を、我々は忘れてはならないのである。
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