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2020年8月9日(日)晴れ、猛暑
一時帰宅(コロナと戦争を考える)
 5日、山を下りて藤沢の自宅に帰って来た。カミさんから「車検が切れるので、早く車を戻して」と連絡が来たからである。(どうも車が最優先で、「俺に帰って来て」との優しげなニュアンスは感じられなかったなぁ~) 俺の方も、東京、大阪、神奈川と首都圏中心に新型コロナの感染者が再び増加していて、帰宅には気が進まなかったが、車検が切れるとなったら止む無しと、帰途についた次第である。

 帰ったら帰ったでまた大変で、留守の間に溜まった郵便物の対処や、やれ洗濯機の上に棚を作って欲しい、やれベランダの足が腐ったので直してくれ、やれ網戸が破れているので修理しろ、果ては、やれこんな早い時間から酒呑んで(といっても、電気もないおやじ山でいつも夕食を摂る時間なんだけど)、などと何やら文明に翻弄されて、コロナ以上に気が病んだ毎日だった。

 しかし自宅に帰って久々に新聞やテレビを観たりすると、なかなか新鮮でインパクトがあって、あれこれと考えさせられてしまった。

 一つは8月5日の朝刊に掲載された評論家東浩紀(あずまひろき)氏のインタビュー記事「新型コロナ 生き延びる命とは」である。

 内容の詳細は「森のパンセ」で改めて紹介するが、東氏はコロナ禍がもたらす苦悩に対して哲学は何を提示できるのかという問いに、イタリアの哲学者アガンベンの提言を紹介していた。
概要は以下の通りである。

『アガンベンは、今回のコロナ危機の中で、人間が生き延びること以外に価値を持たない社会になってしまっていいのか?と問いかける。この主張の眼目は、ウイルス危機を口実にして権力の行使(生権力:人々の「生」に介入することで集団を効率的に管理・統治する権力)が強化されていることを警戒すべきだ、というもの。今回のような緊急事態が起きると、生権力が強く立ち上がり、また人々は、権利制限を受け入れてしまう。つまり個々人にとっては1回しかない人生が、100人死ぬか千人死ぬかという群れの問題として語られ、個人の内面に集団の価値観が刷り込まれていく。生権力はこうした数の暴力性(例えばITを基盤にしたビッグデータ、接触追跡用スマートフォンアプリ、GPSによる感染者追跡など)と結びつく。
 しかし人間は決して、「個体の生」(自分一人の生命)のみを至上の価値として生きている存在ではない。そもそも「命」とは個体の生を超えているもので、人ひとりはすぐに死んでしまうはかない存在だが、私たちが生きているのは過去があったからだし、歴史の資産を未来に伝えていくことで流れができる。それが命というものだ。つまり生(命)には「個体の生」と「個体の生を超える生」があり、自由で文化的な社会を次世代に引き継ぐこともまた命を守ることだ。人々の国際的な交流がなくなる。次世代の教育ができなくなる。劇場がつぶれる。大事にされてきたはずの価値に対し、社会が以前より鈍感にされつつあるとしたら、人々の意識が「個体の生」に集中させられているからではないか。(ではどうしたらよいか、の下りは「森のパンセ」で紹介します)』

 もう一つはテレビで8月7日放送の「NHKスペシャル 証言と映像でつづる 原爆投下・全記録」である。

 これは全くショッキングな内容だった。原爆投下前の日本の中枢部は、既にアメリカが原爆の製造に着手し核実験に成功していたことを知っていたこと。(そしてまさか実際に投下するとは思わなかったこと)ポツダム宣言受託を軍部の反対で即座にできなかったこと。原爆投下の責任者ファレル准将の生々しい手記。そしてNHKがよくぞ思い切って放映したと思われる投下直後の凄惨な映像の数々。

 8月6日、そして今日9日の広島と長崎の平和祈念式典をテレビ中継で観た。来賓挨拶で日本の総理大臣は、またしても広島、長崎の悲願には応えず、核兵器禁止条約の署名・批准にはいっさい触れずじまいだった。「(核保有国と非保有国との)立場の異なる国々の橋渡しに努め・・・核兵器のない世界の実現に向けて・・・」の挨拶の何と白々しいことか。8日の朝日川柳である。

  原稿をだた読むだけの「橋渡し」(寺下吉則)
  何時何処で何をしたやら橋渡し(鈴木了一)

 明日早朝家を出て、また長岡の山に帰ります。今日の朝日俳壇の句、

 
大空を引き寄せてゐる植田かな (藤岡市 飯塚柚花)

いよいよ俺が大好きな夏本番が来た。


 2020年8月4日撮影(託念寺の父・母・兄が眠る墓に参り、境内を出て信濃川の堤防を望む)
 新潟県での梅雨明け宣言二日後、この日ようやく本格的な夏日となった。 
2020年8月26日(水)晴れ
2020年の夏
 今年(2020年)の新潟県の梅雨入りは6月11日、そして梅雨明けが8月2日、何と53日間もシトシト、ジメジメの梅雨空が続いたことになる。新潟気象台は「新潟県で観測史上最も雨が多い7月になった」と発表した。
 大雪が降った春先には、おやじ小屋の土間に雪融け水が上がることが何度かあったが、梅雨時期の雨で土間が水浸しになったのは今年が初めてである。(今は風の小屋に蒲団を上げて、そこで寝起きしている)おまけに冷蔵庫がない(電気がないので)おやじ小屋ではクーラーボックスの中までカビが浸入して、中の食料はもちろん、食器類にまでカビに侵されてほとほと困った。

 しかしこの間、おやじ山に来てくれる仲間達がクーラー用にとペットボトルの水を凍らせたペット氷を持って来てくれたり、カビキラーや殺菌剤を提供してくれたりと、いくら感謝しても感謝し切れるものではない。

 今年の本格的な夏の始まりは、梅雨明け2日後の8月4日からだった。ようやくギラギラとした真夏の太陽に「俺の夏が来た~!」と嬉しくて思わず叫んでしまった。

 5日からは所用で藤沢に一時帰省し、10日に再びおやじ山に帰った。帰途に、関越道の水上インターで下りて、決して忘れ去ることのできない湯檜曽川に向かった。(2016年の森のパンセ「忘れ得ぬ夏-その2-ああ!湯檜曽川」で書きました)
 71年前に、臨時雇員の貧しい鉄道員の夫婦に手を引かれた小児麻痺で足が不自由な小学6年の兄と、小3の次兄、そして4歳のガキ(自分)の3兄弟とが、最初で最後だった家族揃っての汽車旅行で下りた湯檜曽駅の前を通り、湯檜曽川の橋を渡り、立ち寄れると思って喜んだがぬか歓びだった湯檜曽温泉の旅館街を通り抜け、涙が出るほどに懐かしい湯檜曽川の河原に下りた。ここで家族皆で裸になって水浴びをし「温泉だあ~温泉だあ~」とはしゃいでつかの間の夏の1日を過ごしたのである。ガキの俺の脳裏に焼き付いている風景は、紛れもない河原から望んだ橋とその向こうの上越線の鉄橋の風景なのである。

             (71年前の夏、貧しい国鉄職員一家5人がこの川で遊ぶ)
 河原から上がり、上流部に向かって車を走らせた。確か道沿いに河原に出られる公園があったと、4年前に訪れた時の記憶があった。
「あった!」そして河原に足を運ぶと、水浴びする親子の楽しげな笑顔と歓声である。こんなに華やかではなかったにせよ、まさに71年前の俺たち家族の情景が髣髴と甦って目頭が熱くなった。

            (2020年夏、湯檜曽川上流で水浴びを楽しむ親子たち)
 記録的な長梅雨の後は、一転して全国的な猛暑日が続いた。長岡でも連日の真夏日だったが、幸いにしておやじ山は幾分凌ぎやすく、山の仲間達が集って風の小屋造りを手伝ってくれた。午後3時頃には大方の始末をつけて解散にしたが、仲間が山を下りた後は、一人ドラム缶の水風呂で行水して身体を冷やし汗を流した。そして水風呂から上がり身体を拭いたあとは、パンツも付けず素っ裸でおやじ山を彷徨するのが常になった。するとその爽快感とともに自身が一匹の野獣と化して自然と同化し、おやじ山に抱かれるような安らぎと開放を味わうのである。

 8月23日に再び所用で自宅に戻った。山を下りてからの帰り際、再び託念寺に寄った。13日の迎え盆(盆入り)に墓参りしたものの送り盆(盆明け)のお参りをしていなかったからである。参拝を済ませ、いつもの通り寺の境内から外に出た。青田の向うに広がる空に、秋の気配が滲んでいた。
 今年の夏は、21日を最後に終わったようだった。


(2020年8月23日、託念寺の裏道から撮影。この夏は8月21日を最後に終わった)