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最後のページは<7月29日>です。

2012年7月9日(月)晴れ
豪雨とコシジシモツケソウ
 6月21日におやじ山から帰ってきたばかりだったが、7月3日に再びおやじ山に入り、昨8日に藤沢の自宅に戻った。
 今回の目的はいくつかあったが、その最大の目的は、蓬平町のボランティア団体「猿倉緑の森の会」の皆さんにお約束したレポート内容の確認のため、再度猿倉岳のブナ林を見るためである。

 前回のおやじ山滞在中に、あるいきさつから森の会の代表のNさんがおやじ山に訪ねて来られ、さらにNさん他、猿倉岳のブナ林を手入れしている皆さんに案内されて「天空のブナ林」を見せていただいた。全く「灯台下暗し」で、おやじ山のすぐ近くにこんな素晴らしいブナの天然林があることにビックリするとともに、この森が持つポテンシャルな魅力や周囲の景観の美しさに心を打たれてしまった。
 それでそんな内容と今後の会の皆さんの活動の一助になればと、前回の帰宅後にレポートとして書き始めたものの、僅か2回(案内された後日、もう一度一人でブナ林を訪ねた)の訪問では各所にあやふやな部分があり、今回三たび「天空のブナ林」を訪れた次第である。
 林内の距離の測定も懸案の一つだった。いつかはGPSで正確な測定をしようと思うが、遊歩道の長さなどある程度の数値は必要で、「いち、にい、さん・・・」とまさに伊能忠敬になった心境で歩数を数えて距離を割り出したりした。

 他の目的として、やはり今の時期はおやじ山の草刈りである。数年前から植え始めたブナ苗の周りに繁った草を刈り取ったり、池縁に植えたノハナショウブやカキツバタの周りを除草した。
 更に今回は、ミズバショウの種まきがあった。将来、下の池やその周辺の湿地をミズバショウ畑にしようと思いつき、自然観察林のミズバショウの大株に付いたこん棒状の崩れた肉穂果を2つ3つ頂戴して、発砲スチロールの育苗箱に敷いた鹿沼土の中に播種した。

 しかし、滞在中は大雨に祟られた。5日の夕方から夜半の雨は、全く凄まじい降り方だった。豪雨が襲ってくる瞬間に、静かな山に突然「シュ〜!!」(ザ〜ザ〜でもビショビショでもない)と大音響のシャワー音が鳴り響いて、雨粒が太い銀色の簾(すだれ)となって天空から落ちてくるのである。
 6日夜中の豪雨では、おやじ小屋の煙出しから屋根に叩きつけられた雨粒がしぶきとなって落ちてきて、寝ている俺の顔を濡らすほどだった。

 そんな雨の日でも、心を癒してくれるのは、おやじ小屋の周りで咲く花々である。自慢のコシジシモツケソウやエゾアジサイはこの時期が盛りで、激しい雨に打たれながらも健気に咲き誇っていた。

 因みにコシジシモツケソウのタイプ標本は新潟県十日町市松之山、ギフチョウの食草コシノカンアオイのタイプ標本地は村上市の勝木(ガツギ)、そして何と!絶滅危惧種(環境省の絶滅危惧TB類)ホトケドジョウのタイプ標本はおやじ山の麓の川、長岡市栖吉川だと、地元に住む民間博士のNさんから教えていただいた。(ホトケドジョウの学名は「レフア エチゴニア」である)
 蓬平町のブナ天然林にせよ、これらの動植物にせよ、越後の我が郷里は素晴らしい自然の宝庫だと今更ながらつくづく思うのである。

(「おやじ小屋から」のトップページ写真を、コシジシモツケソウに囲まれたおやじ小屋、に替えました)
2012年7月15日(日)曇り
「雲」

 今朝の新聞に、先日来の九州豪雨で死者22人と出ていた。早く梅雨が空けて本来の夏雲が見てみたい。

 5年日記を開いて、昨年の今日(2011年7月15日)のページを見ると、次のように書いてあった。

  今朝の「天声人語」から
『天体が不易の象徴ならば、雲は流転の代名詞だ。良い風景には必ず、よい雲がある。遠くの親を思う心を、望雲の情という。津波や放射能に追われ全国に散った子どもたちを思う。頭上の雲に探すのは、故郷で頑張る父さんの背中だろうか。風になった母さんの笑顔だろうか。

 
  あの日から、既に1年4カ月である。 

2012年7月16日(月)晴れ
代々木公園の脱原発集会に行く
 とにかく、暑かった。今日は全国的な猛暑日で、東京の最高気温は33度まで上がった。それなのに、小田急代々木八幡駅で電車を降りたら、もう駅前から大変な人混みだった。牛歩の歩みで、とにかく代々木公園のメイン会場まで入り、準備されていた炎天下のブルーシートの上に座ったものの、じっとしているのにとても耐え切れず、立ち上がって後方の立見席に回った。「さようなら原発 10万人集会」の会場である。

 集会は午後1時から始まった。先ずはルポライターの鎌田慧氏が喋り(後方に移動途中で内容は分からなかった)、続いて音楽家の坂本龍一氏が、「何十年か前に安保反対でこの会場に来た。今日は、たかが、たかが(多分2度繰り返した)電気のために、何で命を危険にさらさないといけないのかあ〜」と叫んで拍手を受け、次にマイクを持った経済評論家の内橋克人氏が、「脱原発運動に対する中傷がどんどん大きくなってきている。かれらが決まって我々を批判して言う事は、<対案を示せ>という。反原発の科学者、故高木仁三郎さんは『実際に生きている人間の直感のほうが、科学的知を超えて物事の本質に迫る瞬間がある』と言ったが、我々は今、その恐怖という素朴な直感を発信している。合意なき国策の上に、日本中に原発を作ってきたことに、はっきりとさようならを言おう」と、やはり評論家らしくまとめた。

 続いてノーベル賞作家大江健三郎氏がきっちりとした背広姿で壇上に立った。「去る6月15日に750万人もの脱原発署名を野田首相に提出したが、その翌日、関西電力大飯原発の再稼動が決まった。私らは侮辱されたと思った。」(「そうだ〜!」の声と拍手)「私らはいま侮辱の中に生きているが、原発の恐怖と侮辱の外に出て、自由に生きることを皆さんを前にして心から信じる」と、あの独特の喋り方で作家らしくスピーチした。

 それからパーソナリティ(元?)の落合恵子氏がマイクを握り、頻りに「命が・・・命が・・・」と言ってから、「皆さん!熱中症にならないようにしっかり水を飲んで下さい」とまるで司会者のようなスピーチだった。(因みに司会は講談師の神田香織だった)
 次に演壇に立った作家の瀬戸内寂聴さんは、「先ほど、大江健三郎さんは77歳になったと言われたが、私はこの5月で90歳ですよ!」(会場から大きな拍手)「まわりから、東京まで出かけるなど足手まといになるから止めろ、と言われたけど、こんなにたくさんの日本人に会ったのは初めてです。(司会者から今日の集会で17万人が集まったと報告された)冥土のみやげに皆さんの集まった姿を見たかった」と笑わせた。

 この会場の近くに住むというノンフィクション作家澤地久枝氏は、「自宅からこの会場までようやく来たけど、ご両親と一緒に子どもも多く参加している姿を見ました。この未来に続いていく命のために、私たちができることをやりましょう」と、品良く語った。
 それから、評論家の広瀬隆氏が演説し、次に大飯原発のある地元の住職、中嶌哲演氏が喋り、最後に、福島から参加した武藤類子氏がメッセージを読んで、炎天下の集会が終わった。

 これからデモ行進である。「すでに、会場外からはデモ行進が始まってます。会場に居る人は、そのまましばらく待機して下さい」とアナウンスがあった。
 しかし、こんなジリジリと焼け付くような場所にじっとしている訳にもいかず、人混みをかき分けて会場外の道路に出た。まさに人と幟旗の林立で、交差点にいる交通整理の警官が「列の途中からは入らず、行進の後ろにお回り下さい」とメガホンで叫んでいたが、行進中の○○のグループに紛れ込まさせてもらった。
 
 「自然と命を守るために、原発は廃止しろ〜!」
 「原発の再稼動は、ゆるさないぞ〜!」
 「原発はいらないぞ〜!」

 大声は出なかったけど、思いを込めてシュプレヒコールをしたつもりである。しかしすぐに暑さでのぼせて来て、戦線離脱してしまった。

 遅まきながら数日前に「さようなら原発1000万人署名」運動の7,851,301番目に電子署名したが、暑さと政府に侮辱された悔しさも募って、早く帰ってビールでキュ〜と心身を癒したかった。
 
2012年7月18日(水)
人が生きる意味(10万人集会の補足)
 16日の日記で大切なことを書き忘れた。「さようなら原発 10万人集会」での瀬戸内寂聴さんのスピーチの内容である。それを書き足したい。

 挨拶の冒頭で、「90のばあさんは寝てろと言われたが、冥土のみやげに皆さんの集まった姿を見に来た」と張りのある声で笑わせたあと、いろいろ喋って、そして最後にこう結んだのである。

 「人間が生きるということは、自分以外の人のために少しでも役に立つ、自分以外の人の幸せのために生きていくことだ。・・・政府への言い分があれば、口に出していい。体に表わしていい。たとえむなしいと思う時があっても、めげないで、言い続けよう」

 炎天下でこのスピーチを聞いたときに、彷彿として頭に浮かんだ言葉があった。そしてその言葉をある年の年賀状に書いて、自分もかくありたいと添え書きした。
 それは宮本輝の小説「骸骨ビルの庭」に出てくる『パパチャン』が、「人間は何のために生まれてきたのか」と、自分がずっと面倒を見てきた捨て子に訊かれて、即座に「自分と縁する人たちに歓びや幸福をもたらすために生まれてきたのだ」と答えた言葉である。

 俺の、重い宿題である。

 
2012年7月19日(木)晴れ
友への手紙
 
 寺井拓也様

 拝啓 暑い日が続いていますが、ご家族の皆様ともども、お変わりないでしょうか。
 こちらも「海の日」以来の猛暑日が続いていますが、元気にやっております。

先月21日に、85日間の郷里での山暮らしから藤沢の自宅に帰りましたが、その後、留守中に溜まったあれやこれやの雑事や、長岡に滞在中の約束事に忙殺されて、せっかくの貴君からお贈りいただいた書物に目を通せずじまいでした。

 やや落ち着いた数日前から、貴書「原発を拒み続けた和歌山の記録」を読み始め、今日はしばしば散歩に出掛ける近所の墓地公園の木陰で、最後のページまで読了しました。そして本を閉じて、しばらくは夏の風に揺れる橡の木陰のベンチで爽やかな感動に浸っていました。

 昨年の3・11の東日本大震災と福島第一原発の空前の放射能事故、そしてその後の電力業界と政府の専門家チームがグルになった隠蔽や欺瞞が次々と明るみに出ながら、今なお多くの国民の声に耳を貸さない政府の対応と、まさにこの時宜を得た貴書の出版に心からお祝いと敬意を表します。

貴君は「あとがき」の冒頭で、『「和歌山県に原発計画があったんですか?」。多くの人から聞く言葉だ。』と書いていますが、恥ずかしながら小生もその一人でした。

そして『かつて和歌山県には4町5ヶ所に原発計画があった。昭和40年代、関西電力は主要電源を火力から原発にシフトしようとしていた。その結果、紀伊半島が狙われ、関西電力の原発立地をめぐって20年を超える激しい攻防が和歌山で繰り広げられることになった。現在、和歌山県内には原発は一基もない。三重県を含めて紀伊半島に原発は全くない。原発ゼロの「秘境」である。』と君は素晴らしい事実を教えてくれました。

まさに昭和42年から平成2年まで24年間に及ぶ「日高町」の反原発闘争、昭和51年から平成17年までの24年にわたる「日置川町」(平成18年に合併して現白浜町)の闘い、さらに昭和43年から平成2年までの23年間の「古座町」の原発反対の闘い、そして「那智勝浦町」の昭和44年から13年間に及ぶ原発立地反対闘争と、君はよくもこれだけの汗と涙と苦悩の詳細な歴史を、多分、君自身のねばり強い反原発の不屈の闘いと厖大な資料の山から詳らかにし、まとめ上げたものだと、全く感服いたしました。

貴君はまた、『和歌山における20年の闘いが問いかけるものは何か。闘いで一貫して掲げられた言葉は「いのちの大切さ」・・・いのちの源である海、山、川を守ろう。それを子や孫に残そう。』とも書きました。全く同感です。人智の驕りが作り出した、たかが数十年前の原発と、数億年のオーダーで脈々と営まれてきた大自然とは、未来永劫共存などできっこないのです。

 「海の日」の今月16日、東京代々木公園で開催された「さようなら原発 10万人集会」に参加してきました。ひょっとして和歌山から君も上京していて、会場で会えるかも知れないと期待したのですが、17万人もの参加者の中から君を探し出すのはどだい無理でしたね。

 そしてこの会場でも、既に40年も前に和歌山の人たちが「いのちの大切さ」をかけて反原発を叫んだと同じことが、壇上から叫ばれていました。現在と未来に継ぐ「いのち」こそ、経済発展や利便性や物質的な豊かさや、さらには原発技術による国家の軍事外交的効果などという愚論などより、遥かに優先度が高いのだと改めて感じた次第です。

素晴らしい著書をこの時期に世に出してくれた貴君の努力と情熱に、心から敬意と賛辞を送ります。梅雨も明けこれからが猛暑の本番です。どうか御身お大切にお過ごし下さい。

                                                    敬具

     平成24年7月19日                               関 孝雄

 

2012年7月23日(月)
山梨森林調査
 4時半起床。今日から8日間の予定で森林調査の仕事で山梨県に出張する。10時に身延線市川大門駅で、今回初めて組むKさんと落ち合うことになっている。また、どんな森に出会えるか楽しみである。

 しばらく、<おやじ山の春2012>と「7月日記」を休みます。
2012年7月29日(日)晴れ
山梨の山旅
 昨日、山梨県の森林調査の仕事から帰った。当初の予定は30日の帰還だったが、パートナーのKさんにアクシデントが起きて、2日早い出張帰りとなった。
 しかし今回は、初日から連日気温が33度まで上がり、よくもこれだけ汗が吹き出るものだと、我ながらビックリするほどの暑さだった。さらにヤマビルにも悩まされ続けていたので、偶然にせよ、早い切り上げは良かったと思っている。
 
 今回の調査地は山梨県のほぼ中央部、富士川の流れや南アルプス、そして遠くに富士山を望む十数か所の森林だった。相変わらず険しく厳しいポイントが多かったが、途中ののどかな山村風景や見事な森、そして珍しい昆虫や草花などを目にすると、この仕事ならではの幸せを感じてしまう。

 調査2日目の午前には、南アルプスの前峰、櫛形山(2,052m)に入ったが、林道沿いにはクガイソウの紫の花穂にウラギンヒョウモン(ミドリヒョウモン?)が吸蜜していた。そしてこの日の午後、今度は富士川を越えて市川三郷町の三帳の山に入り、ここで十数頭(昆虫は一頭、二頭と数えます)のオオムラサキの群を見た。残念ながら近づいた途端に大方が逃げてしまったが、美しい日本の国蝶をこれほど大量に見たのは初めてである。そして車に戻ると、今度は道路上にスミナガシが翅を休めていた。写真を撮ろうと近づいた途端に、まさに飛鳥の速さで逃げてしまった。珍しいこの蝶を見たのも、初めてである。
 
 調査3日目は富士川町の十谷峠に向った。御殿山(1,670m)の林道が山崩れで塞がれ、崩れた瓦礫を何度も越えて、汗を拭き拭き可なりの距離を歩くことになったが、沿道にはキリンソウやタマアジサイが咲き、今が盛りのウツギの花にはカラスアゲハが、ヒヨドリバナには「渡り」の蝶、アサギマダラが吸蜜していた。アサギマダラは初夏に南から北に向かって長い距離を移動し始め、遠く北海道にも渡り、秋には逆に北から南に下るのだという。その他、スジグロシロチョウやセセリチョウの仲間もヒラヒラと舞って、疲れを忘れさせてくれる自然観察の山歩きとなった。
 ここで見たブナの森も素晴らしかった。消耗し切った身体を涼やかに癒してくれる見事な美林である。


 そして昨日の午後、猛暑とヤマビルの猛攻でグッタリして静岡駅に着き、駅ビルの食堂に飛び込んで、先ずは冷酒と酒盗を頼んだ。無事の生還を祝して一人乾杯である。干乾びた身体に冷酒が生娘の純情さであっけなく滲み込んで、その旨いことといったらなかった。いそいそと二杯目を頼んでメニューに目を凝らすと、「由比産赤えびのかき揚げ」とある。そのまたこたえられないカリカリ・サクサク味のかき揚げを頬張り、冷酒を口に含みながら、汗びっしょりで目にした大河富士川と、夏霞みの中に聳え立つ富士山の姿を思い浮かべていた。