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2ページ目から「宮崎の山旅」をアップしました。

2012年11月2日(金)晴れ
2012おやじ山の秋(プロローグ)
 10月29日に長岡東山キャンプ場に張った最後のテントを畳んで、おやじ山を後にした。それから北陸道〜上信越道〜長野道を通り、途中の道の駅で車中泊をし、翌30日は靄に煙る早朝の海野宿(うんのじゅく)を散歩し、小諸の懐古園に立寄り、清里高原では寒さに震えながらソフトクリームを舐め(カミさんがここの名物だというものだから)、この日の夜に藤沢の自宅に帰った。

 9月初旬に続いてこの秋2度目のおやじ山行きだったが、今回は38日間の山暮らしだった。そしてこの期間中にもいつもの事ながら、様々な出来事があった。おいおい遡ってこの日記でつぶやくつもりだが、長期間の山暮らしの中で、総じて昨今の異常気象や例年とは違う森の生態系の異変が山に棲むからこそビビッドに感じ取れて、大いに危惧している。
 夏の暑さが秋の季節まで押して続いたり、そのせいか楽しみにしていたキノコの発生が全くと言っていいほど無かったこと。例年の穏やかな秋晴れが今年は見られず、雷、ゲリラ豪雨、突風と気象の変化が目まぐるしく猛烈だったこと。今年は山の木々の実生りが殆ど無い中で、コナラとミズナラのどんぐりだけが大量(異常?)に結実したこと。今年一年を通じて昆虫と野鳥の数が極めて少なかったが、カメムシだけは異常に発生したこと。細かく異変を数え出したら枚挙に暇がないほどである。


 しかし嬉しかったこと、楽しかったことも実にたくさんあった。
 例年、春の山菜採りと秋のきのこ狩りにおやじ山を訪ねてくれる森林インストラクター神奈川会のメンバーや中学、高校時代と郷里長岡で共に過ごした同級生達とのキャンプ場での賑やかなきのこ汁パーティー。さらに今年は、遙々やってきた神奈川会の皆さんを「猿倉岳天空のブナ林」に連れ出し、地元蓬平町の「猿倉緑の森の会」が主催した「秋のトレッキング&自然観察会」のリーダーになってもらい地元の人たちとの交流を深めてもらったこと。そして極め付きのサプライズは、2年前の秋、北海道を皮切りに沖縄までの全都道府県をチャリンコを漕いで踏破の途中、この東山ファミリーランドのキャンプ場で約1週間、殆ど居候の形で我がテントに居ついた宮崎のMさんが再びひょっこり現れたことである。そして、「あの時の一宿一飯の恩義を、いえ七宿七飯(酒・焼酎も凄く飲んだ!)の恩義をお返ししたく、宮崎から4日かけてやってきましたあ〜」と笑顔で言うのである。今回は自転車ではなく、友達から4万円で買ったという中古(古古?)の軽自動車を走らせてきたが、やはり1週間近く、言葉通りおやじ小屋の修理や薪割りなどを猛然とこなして立ち去って行った。宮崎のMさんに引き寄せられたかのように(勿論顔見知りではないが)埼玉からTさんというバイク乗りも4、5日キャンプ場に居ついた。この人もおやじ小屋に来てMさんと一緒に薪割りなどを手伝ってくれたが、長岡の山はよそ者をも惹きつける不思議な魅力があるからだろう。


 ここ2,3日、車からキャンプ道具やもろもろのガラクタを下ろして片付け、例によって溜まった郵便物などに目を通して、慌てて返信や振込みに行ったりとバタバタと過ごした。
 そしてようやく一息ついたと思ったら、また明日は出張の準備である。明後日4日から11日までの予定で宮崎県での森林調査の仕事が待っている。久々の宮崎県での森林調査だが、またどんな森が見られるか、どんな風景に出会えるか、楽しみである。
2012年11月4日(日)曇り
宮崎の山旅(トロピカルムードのスタート)
 今日から8日間の予定で九州宮崎県の山で森林調査の仕事がスタートした。宮崎の山に入るのは2010年2月以来の2回目で、今回も若くても大ベテランのKさんとのペアで、実に心強い。
 「今回もよろしくお願いしま〜す!」と朝の羽田空港のロビーでKさんと元気に挨拶を交わし、ANA603便に乗り込んで宮崎空港に飛び立った。

 宮崎空港に降り立って、早速予約してあるレンタカー(ニッサン]-TRAIL)に送り届けておいた調査機材と各々の荷物を積み込んで、早くも第一調査地点に向かう。この仕事ではいつもの事だが、いかに遠方の県と言えども、「あ〜着いた着いた。先ずは宿に行って一ッ風呂浴びて・・・」とは決してならない。当地に着いた初日から、いきなり本番の調査がスタートするのである。

 実は、今回の調査では密かに不安を抱えていた。先月まで居たおやじ山で、最終日近くに左足の指元を怪我して、5針も縫う失敗をしてしまった。その縫合の糸も抜かないままの出発だったのである。

 しかし、さすが南国の地宮崎である。空港から乗り入れた国道では、センターラインにズラリ並び植えられたワシントンヤシが高々と葉を風に靡かせてトロピカルムードいっぱいである。さらに立ち寄った「道の駅フェニックス」では、その名の通りの堂々としたフェニックスに見惚れたり、展望広場から望まれる日南海岸の「鬼の洗濯板」にカメラを向けたりした。

 その鬼の洗濯板と古代は繋がっていたのではないかと思われる何やら似た形状の渓流の岩場を攀じながら辿り着いたのが、今回最初の調査地点だった。
 途中大きなイノシシに出会ったり、初日とて殊更左足を庇いながら慎重に歩いたせいで随分草臥れてしまったが、トロピカルムードに浸ったまあまあのスタートだった。

 初日、2日目とKさんがとってくれた宿は、宮崎市に程近い綾町の「あゆのお宿 山水」。なる程夕食には鮎鍋、塩焼き鮎2匹、鯉の洗いと、腹いっぱいの川魚料理が出た。
2012年11月5日(月)薄曇り
宮崎の山旅(Mさん宅に招かれる)
 今日は宮崎県西部、小林市須木(旧須木村)のヒノキ・杉林4箇所を調査する。遥か眼下には斑な紅葉模様の山肌に囲まれた青い小野湖が見えて、昨日のトロピカルムードからは一変した山奥の風景である。

 そして、今日は、先月再び長岡のおやじ山にやって来て、一昨年キャンプ場で過ごした七宿七飯の恩義を猛然と山仕事で返して立ち去った宮崎の自転車野郎Mさんと再会した。Mさんのご自宅に招かれ、ご両親にもお会いして大歓待を受けたのである。

 先月Mさんは長岡を離れた後、友達から4万円で買ったという軽自動車を駆って日本海側を北上し、山形から奥羽山脈を横断して宮城県、岩手県の太平洋岸に出て、かつて自分がチャリンコを漕ぎながら寝泊りした公園や町役場の広場などを見て回ったのだという。それらの思い出の場所が、3・11後のある日偶然テレビに映し出されて、その無惨さに居ても立ってもおられずに再び旅発ったとMさんは白状した。野人であればこそ、Mさんの自然に対する心根は実に優しいのである。
 そしてお会いしたMさんのご両親は、長く俺が想像していた通りの、強く逞しくそして優しいMさんを育てあげた、快活で底抜けに親切な素晴らしい人たちだった。

 どこで調達したのか越後の日本酒が出、黒霧島と赤霧島の焼酎が並び、M家で育てたという(Mさんの実家は農家である)地鶏の塩茹で、珍しい四角豆と自家野菜いっぱいのかき揚げ、落花生料理、自家製タクワン(凄く美味かった!)、お刺身など等と、素晴らしいご馳走の数々だった。
 そして、Mさんの口ナビでお母上が運転して下さり、夜遅く「あゆのお宿 山水」まで車で送っていただいた。 全く楽しく、忘れられない一夜となった。
 
2012年11月6日(火)晴れ
宮崎の山旅(日向新しき村の犬)
 今日は、宮崎市から次第に北上しつつ、小丸川(おまるがわ)水域のヒノキ林4箇所を調査した。左足の傷口を岩の角や根株で打たないよう神経を使いながらの歩行だったが、何とかこなすことが出来てホッとした。

 午前中、東諸県郡国富町の2ヶ所のヒノキ林の調査を終えてから、X−TRILの助手席に凭れ掛かって「山水」で作ってもらったボリュームたっぷりの弁当で昼食を摂った。午前の調査地は見事なヒノキ林で、まさに森林セラピーで癒される思いだったが、車に戻った場所でも、昼弁を食べながらフロントガラスの前に広がる美しいヒノキ林を眺め、Kさんがカーラジオにセットしたジャック・ジョンソンの低く静かな、幾分しわがれ声の歌声とギターの音色を聴いていると、精一杯筋肉を使って無垢になった身体に森の霊気がどんどん滲みこんでくるようで、心身ともに癒されてくる。

 今日は更に最後の調査地でツブラジイの美林を見た。そしてその森の近くの高台からは、大正7年の秋、武者小路実篤が「美・愛・真」の人生を探求することを理想として創始したという「日向 新しき村」が、湾曲して瀞となった小丸川の向こう岸に望まれた。その「日向 新しき村」の場所は、「宮崎県児湯郡木城村石河内字城」。宿に行く途中に寄ってみることにした。

 大きな石の門標が建っている入口から敷地内に入ってしばらく農道を行くと、遠くの納屋のあたりから頻りに尾っぽを振って犬が駆けて来た。車を停めて下りると、千切れんばかりに尾を振っての歓迎ぶりである。手を差し出すと「待て!」と勘違いしたのか、ペタリと地べたに伏して更に尾っぽを振り続けている。そのあどけない犬の表情ったら無かった!余程この村のみんなに可愛がられて育った犬に違いない。犬の脇に寄って喉を撫でてやったら、何と!ゴロンと仰向けになって四脚を上にバンザイしてしまうのである。Kさんが笑いながら「まるで、ネコみたいな犬ですね。これじゃあ犬の役割果たせないですね」と言った。

 車を回して農道を戻る。窓から顔を出して振り返ると、遠くであの犬がペタンと腰を下ろして見送ってくれていた。堪らなくなって車を降りて手を大きく振ると、猛然と尾を振りながら駆け寄ってくるではないか!そしてピョンピョンと俺の身体に飛びついてきて、全く可愛いったらないのである。犬で、こんなに別れが辛かったことは、正直、生まれて初めてである。

 帰り道、車を運転しながらKさんが一言、「あの犬、可愛かったですね」と言ったきり、俺と同様むっつり黙り込んでしまった。
2012年11月7日(水)晴れ
宮崎の山旅(尾鈴山)
 今日の調査地は、昨日から更に北上した尾鈴山(1,405m)山麓、およそ標高1,000m付近の杉とヒノキ林の4箇所である。

 第一調査地点は、岩石のガレ場歩行と巨大な岩を攀じて辿り着いた杉林だった。しかし、普段ならどうってこと無いガレ場歩きには難渋した。左足の傷を庇って滑らない石を瞬時に判断しながら渡り歩くのだが、勢い右足に大きな負担がかかってしまう。「この調子だと右足の筋肉もやられそうだな?」と不安を抱えながら、両足のバランスを上手くとるのにも神経を磨り減らしてしまった。

 そして午後からの2箇所の調査地は、ススキの生い繁る高い標高の林道を、]−TRAILでゆっくり掻き分けながら行き着ける所まで進んで、車を乗り捨ててからの長距離歩行(片道3km)である。急斜面を喘ぎ登り、痩せ尾根に出てからは朽ち倒れた巨木を這うように乗り越えながらの苦しい山歩きだった。
 
 更に急坂を滑るように下って降りる帰りの山歩きも、辛かった。足のつま先に荷重が掛って、傷口が履いているゴム長に圧迫されて、全く顔を顰めながらの下山だった。6年前からこの仕事に就いて、全国あちこちの山を歩き回ったが、その何百という山行の中で、今日の厳しさは両手で数えるほどのランキングに入りそうである。

 しかし、今日も素晴らしい杉の美林を目にすることができた。柔らかい秋の日差しに揺れるススキの穂の、何と美しかったことだろう。この仕事に就けばこその喜びである。
2012年11月8日(木)晴れ
宮崎の山旅(矢研の滝〜椎葉村入り)
 今日の調査地も昨日と同じ都農(つの)町川北地区の尾鈴山麓の森である。
 調査初日から連日の好天で本当に嬉しい。不思議にKさんと一緒に仕事をする時は殆ど晴れ日で、ありがたいジンクスである。
 
 そして今日は、午前中の2箇所を調査して終了。尾鈴山瀑布群随一の名瀑、日本の滝百選にも選ばれた「矢研の滝」を見ながらの昼飯となった。午後からは更に北上して、熊本県境近くの椎葉村(しいばそん)まで遙々移動するためである。

 「矢研の滝」は日向国から東征して大和朝廷を開いたとされる神武天皇が、途中この滝で矢を研いだとされる霊験あらたかなる滝である。Kさんと岩の上に腰を下ろして昼飯を頬張りながら、「いいねえ〜、いいねえ〜」と二人だけの贅沢な滝見だった。

 昼飯を食べ終って駐車場まで戻ると、仙台ナンバーの車が停めてあった。そしてすぐ近くの東屋のベンチに日焼けした若いカップルが向き合って座っていた。
「珍しいなあ〜、仙台からやって来たの?」と声をかける。女の子の方が真っ白い歯を見せて、「ええ、そうです」と笑いながら答えた。「宮崎はいいよねえ〜。いつから来てるの?」とさらに問うと、「今年の春から・・・。私たち仙台から宮崎に移り住みました」と答えるのである。(え!)と内心驚きながらも、この二人の若者の何とも爽やかな表情に精一杯のエールを贈りたい気持ちになった。
 男は長髪を後ろで束ねた、ちょっと芸術家風のタイプである。まさかとは思うが、あの「日向 新しき村」に踏み入れて、何とも人懐っこい犬の歓待を受け、それでそのままあそこに住みついたのではなかろうか?と想像してしまうのである。

 川北から約3時間車を走らせて山深い椎葉村に入った。800年前に壇ノ浦の戦で敗れた平家の落人が棲みついた村であり、全国に名を知られた民謡「ひえつき節」発祥の地でもある。俺たちは満々と水を湛えた「日向椎葉湖」に沿ってさらに尾前地区まで遡り、今日の宿「民宿 魁」の戸を叩いたのである。
2012年11月9日(金)晴れ
宮崎の山旅(ツガとブナの森)
 いよいよ今回調査の佳境に入った。最終盤の今日と明日の2日間は、熊本県との県境、国見岳((1,739m)、高岳(1,563m)などの高峰並ぶ九州中央山地に分け入ることになる。椎葉村から林道椎葉矢部線を耳川沿いに走り、尾前渓谷を眼下に見て耳川源流部まで遡るのである。

 林道沿いの所々に、山仕事の合間のちょっとした手遊び(てすさび)で設えたのか、原木丸太をくり抜いて造った日本ミツバチの巣箱が置かれてあった。Kさんが、「最初見た時は昔の棺桶かと思いました」と言った。

 こんな所まで車で登れるのかと驚きつつも、ぐんぐん標高が高くなるにつれて素晴らしい紅葉が目を楽しませてくれた。途中、黒毛の堂々とした牡鹿にも出会った。
 そして相変わらずの厳しい山歩きだったが、今日もまた清流が岩をはむ美しい渓を何度も渡り、そして多分、遥か昔にご神木として伐り出したのではないかと思われる巨大な伐倒木の根株を見つけて息を呑んだりした。


 さらに今日はまた、直径が80cmもあるツガの大径木が林立する素晴らしい森に出会った。そして標高1,400m地点の調査地では、何と冬枯れたブナの森を見た。まさか暖かい印象を持つ九州宮崎の山で、ブナの森を目にするとは想像もしていなかった。林道脇に立てられた看板には「九州中央山地森林生物遺伝資源保存林」とあり、ここが太平洋型ブナ林のまとまった生育地であると書かれてあった。

 長い林道を慎重に下って、やや遅くなって椎葉村に辿りつくと、今日が「椎葉平家まつり」の前夜祭だった。家々の玄関には赤い祭り提灯が掛けられて、村の狭い小路は集まった車で渋滞気味である。そして今日の宿は、椎葉村からは可なりの距離がある高千穂に取ってあった。
「もうこうなったら何も急ぐことないですね。前夜祭を観て、ゆっくり高千穂に向いましょう」ということになった。

 村の中央にあるステージで「鶴富姫法楽祭」が行われるという。壇ノ浦の戦に敗れて椎葉村に落ちた平家方の鶴富姫と源氏の命を受けて討伐に来た那須大八郎とが恋仲になり、その逢瀬の舞台である。(その後大八郎は一粒種を残したまま「都に戻れ」との命により、村を去る)
 面白いことに舞台に飾られた幕には笹竜胆(ささりんどう)の源氏の紋、そして客席最前列に並ぶ名士連が羽織っている赤色のハッピには平家の揚羽蝶の紋が染め抜かれていた。後ろから腰を浮かして名士連が座っている折畳み椅子に張られた名前を読んで見ると、
「那須家三十三代当主 那須初氏」!
「椎葉村村議会議長 那須清氏」!
「椎葉平家まつり実行委員長 椎葉晃克氏」!
とあって、平家と源氏両方の血を受け継ぐその一粒種のやんごとなき子孫たちである。この堂々たる源平の子孫によって、この椎葉村が営々と続いてきたと深く納得させられたのである。大正だ、明治だ、いや天保だ、寛永だと老舗の古さを誇るのとはオーダーが違う。何しろ800年前の鎌倉の世からの累代である。これはきっと、凄いことではないだろうか。
 舞台の上では、那須大八郎が平家一族が拝した厳島神社の守護神を歓請して建てたという「椎葉厳島神社」の神主による御祓いが行われている。正面、右、左と祓って、会場の観客にも御祓いが振られた。俺も頭を垂れて、心からその御祓いを受けた。今日までの無事を感謝し、また明日からの無事を祈って厄を祓ってもらったのである。

 午後9時、高千穂のホテルに入る。
 
2012年11月10日(土)曇り
宮崎の山旅(日本の美)
 あと3点の調査地を残すのみとなった。最後の場所は宮崎県の北端、大分県との県境にある傾山(1,602m)の山系である。幸い、一度開きかけた足の傷口も、昨日の椎葉厳島神社の神主の御祓いが効いて、再び快方に向っている。今日の取りこぼしが無ければ、明日の最終日は機材の整理と片付けだけで仕事が終わる。満々のファイトで一夜の宿「ホテルグレイトフル高千穂」を後にした。

 そして、奥山林道に車を乗り入れ、最初の調査地点に向う途中の渓の美しさったらなかった!ツルツルの滑床に青々とした清流が走り、まるで美術品のように磨かれた岩の淵には硫酸銅でも流し込んだかのような群青色の清水が湛えられていた。こんな見事な渓谷を足早に目的地に急ぐのはもったいない話しだが、まるでツルツルのボブスレーコースのような岩床をしぶきを上げて突っ走る岩清水を見ると、やはり立ち止まって見惚れるほか無いのである。
「こんなところで子ども達に岩滑りをさせたら、絶対喜ぶね」と言うと、Kさんはすかさず、
「私、夏ならすぐここに飛び込みますよ」と答えた。


 そして山中で昼食を摂ってから、いよいよ今回最後の調査地に向った。奥村林道の途中から傾山林道に入った標高1,000m付近の植林地である。その林道の両側は見事な紅葉である!臙脂、茜、紅、緋、朱色、それから山吹、欝金、支子、藤黄と夥しい色合いが空間を染め上げて、まさに「錦織りなす」とはこんな光景を指すのではないかと思った。
 俺が見慣れた北国の紅葉は、燃えるような赤や鮮やかな黄色の原色で、謂わばゴッホが描く油絵の風景である。その中にはこれから厳しい冬を迎える直前の、一種の激しさを内に秘めている感じがする。それに比して、ここ九州宮崎の紅葉は、何と柔らかく穏やかな色合いだろう。北国の紅葉が油絵ならば、九州で目にした紅葉は、まさにしっとりとした落ち着いた日本画の風景である。

 目標の最後の3点の調査が終った。いささかの達成感と満足感を胸に最後の宿に向った。そして出会った風景が、石垣村である。正式名は宮崎県西臼杵郡日之影町戸川。全戸数7戸の小さい村ながら、その集落全体が美しい石組みで形成されていることから「石垣村」と呼ばれ、国の文化的景観地区に選定され、「日本の棚田百選」の認定も受けている。そのどっしりとした石組みの景観は、何やら外国の風景に出会ったようでもあり、まさに感動ものだった。


 そして今回最後の宿は、日之影川と五ヶ瀬川が交わる深い谷底に建つ宿だった。
2012年11月11日(日)雨
宮崎の山旅(神の国のフィナーレ)
 朝、目を覚まして部屋の窓を開けると、雨が降っていた。川向かいの切り立った山肌をホリゾントに、銀色の雨がすだれ落ちていた。8日間の山旅で、初めての雨である。

 宮城県西臼杵郡日之影町。なるほどその名前の通り、日之影川と五ヶ瀬川が深々と削り取った谷底の川縁に、流れに迫り出すようにして民家が並び、切り立った山の端に見える天と、地に並ぶ民家との厖大な落差に、「日の影の町になるのもむべなり」と頷かざるを得ない。さらに部屋の縁側から首を伸ばすと、山霧に煙った巨大な橋がこの町の天空を覆っている。その名も「青雲橋」。長さ410m、水面からの高さは137mのアーチ橋で、一層この町から日射しを奪っているようにも見える。

 宿の駐車場を借りて調査機材の一つひとつを確認してコンテナーに整理してから、宮崎空港への帰路についた。日向灘に出てからは、一路国道10号線を南下する。

 その途中、耳川の河口の町、美々津港に立ち寄った。Kさんとこの川の源流部で何度も渓を渡渉しながら汗を流したが、その汗の雫もこの河口まで流れ下ってきている筈である。
 美々津港は、その昔神武天皇が大水軍を編成して東征の船出をしたと伝えられている「御舟出の地」である。そして折りしも今日は港脇に建つ「立盤神社」の大祭だったが、その境内には神武天皇の御船出にあやかって大きな錨のモニュメントが建てられ「日本海軍発祥の地」と大書して刻まれてあった。かつての軍港呉や佐世保、横須賀が何と愚痴ようと、こちらは何しろ神武天皇の御世の事象である。所詮歴史のオーダーが違うと、胸を張らんばかりの堂々としたモニュメントだった。
 さらに美々津の町は、江戸、明治と千石船を所有する廻船業者で賑わいをみせた白壁土蔵の家が今も残る美しい町並みである。そぞろ歩いて手にしたチラシには「重要伝統的建造物群保存地区」と書かれてあった。

 そしてこの旅の最後で立ち寄ったのが、かつての新婚旅行のメッカ、鬼の洗濯板に囲まれた青島である。島への橋を渡りながら、思わず<♪フェニックスの 木陰 宮崎の二人♪>とデューク・エイセスが甘く唄った歌詞を口ずさんでしまったが、島の中の青島神社に参拝して心から今回の無事を感謝した。
 そして元宮に続く参道脇に生い茂るビロー樹の森にはビックリしてしまった。まさに熱帯雨林の様相で、つい昨日まで歩き回った深山の紅葉や冬枯れたブナ林の風景が、まるで夢を見たような思いだった。
 (宮崎の山旅  おわり)
2012年11月25日(日)晴れ
2012おやじ山のフィナーレ(両親の居ます山)
 11月23日勤労感謝の日はおやじの命日である。おやじが亡くなった平成2年のこの日は、冷たいミゾレ混じりの雨が降った。今年で23回忌になるが、不思議なことにそれから毎年の命日には、郷里では冬の到来を告げる冷たい雨になる。

 再びおやじ山に足を踏み入れたおやじの命日の一昨日と、そして昨日も、やはりジンクス通りの時雨れが続き、ようやく今日になって青空が出た。今朝も実家近くにある両親の菩提寺「托念寺」に寄って手を合わせてから、おやじ山に入った。
 この2日間、時雨の雨に打たれて寒々と煙っていた山菜斜面の紅葉も、今朝は小春日の日射しを受けて目を覚ましたかのような彩を見せている。天気予報は明日から再び雨。おやじ山でのもみじ狩りも、多分、今日あたりが今年の最後になりそうである。
 
 山の一年を振り返れば、<春山の笑い><夏山の滴り><秋山の粧い>そして<冬山の眠り>と季節を巡る一生があるように、おやじ山の短い秋の季節の間にも、やはり風景の移ろいに合わせたドラマがあるように思える。
 今年は夏の暑さがいつまでも続いて、秋の季節になっても蒼々としていたおやじ山の景色が、10月中旬からの気温の低下で一気に錦に粧い始め、それぞれの葉を紅や鮮光黄に染め上げたかと思うと、今や渋茶色の寂しい晩年の紅葉となった。
 来る年も来る年もおやじ山の秋をずっと見続けていたせいだろうか、盛期の燃えるような紅葉や鮮やかに色付く黄葉には何やら切羽詰った哀れさを感じるようになった。まるで絵の具のチューブから搾り出した赤や黄の原色をそのままキャンバスに叩きつけるゴッホの油絵に似て、息を呑む程の度外れた色彩風景が、短い生を惜しむ激しい情念と、もう直に深い雪に埋れてしまう怨念をも内包しているようで、溜め息とともに一抹の無常観を覚えるのである。

 今日の午前中は、おやじ池の縁で育てたナメコのホダ木から、今年最後の山の恵みを頂戴した。おやじの墓参りも心置きなく済ませたし、おやじ小屋の雪囲いも以前の作業で終らせてあった。もうこれで今年の俺の山仕事は終わりである。

 小屋の前のデッキに腰を下ろして、向かいの山菜斜面の風景にいつまでも見入っていた。早春の日射しにキラキラと輝いていた残雪の風景、夢中で歩き回ってゼンマイやワラビを摘んだ新緑の春、そして真っ黒に日焼けして働いていたおやじを必ず思い出させてくれる寡黙な夏、それらの風景がじっと座りながら秋の日射しに目をしばたたかせる度に、髣髴と瞼に浮かんで来るのである。

 「ああ、俺は何と幸せなんだろう!」と、おやじ山に来るたびに思う。ここにこうして座っていると、おやじとお袋に決まって会うことができる。ここには紛れも無く懐かしいおやじやお袋がいて、いつでも俺を見守ってくれている。心底俺にはそう思えるのである。
 「一年間、ありがとうございましたあ〜!」
 デッキから腰を上げて、いつものようにおやじ小屋に向って大声で別れの挨拶をした。今年一年のおやじ山のフィナーレだった。