最後のページは3月31日

2008年3月8日(土)晴れ
「生きてこの世で会いたかった」

 先月末、神奈川の森林調査から帰ってバタバタと忙しい日が続いた。翌日から2日程ある用件を済ませ、3月3日(月)からは(変な話だけど)辞めさせてもらうために農園のアルバイトに出かけた。そして5日まで働いてN農園を辞めた(クビになった?)。神奈川に引き続いて明日9日から16日までの8日間、今度は静岡県の森林調査の仕事をいただいたからである。農園は冬場の「花」から春の「野菜」に切り替わって繁忙期に突入しており、こんな時にまたまた「あのお〜」などと長期休暇の申し出などとてもできず、ローテーションの切れ目で辞めることにした。そして2日前から今までの宿題やら静岡出張の準備やらをやって何とか一段落ついた。
 そして今日、1月からのロードショーも終わりに近づいている山田洋次監督の「母べえ」を観にいった。
映画館など一年に1度行くか行かないか程度なのだが、この作品だけは何としても観ておきたかった。
 ストーリーは日中戦争下の昭和15年から始まる。ドイツ文学者の「父べえ」が治安維持法違反で思想犯として逮捕収監されて居なくなった一家族が、「母べえ」を中心に姉妹の「初べえ」「照べえ」と3人で戦時下を生きていく物語である。そして翌昭和16年12月、日本は米英開戦へと突入し「母べえ」家族に「父べえ」の獄死が伝えられる。終戦となって時は移り、妹の「照べえ」も結婚して絵画教師となって学校で生徒を教えているところに、照べえの息子から「母べえ」危篤の電話が入る。「母べえ」の入院先は医者となった「初べえ」の勤める病院である。病院に駆けつけた「照べえ」が「母べえ」の枕元で言う。「母べえ、頑張ったね。もうすぐあの世で父べえと会えるね」 母べえが微かに口を動かす。「え?なに?・・・」そして照べえが号泣するのである。医者の初べえが「母べえ、何と言ったの?」と照べえに尋ねる。「母べえ、あの世でなんか会いたくないって。生きて父べえとこの世で会いたかったって・・・」
 明日からは静岡の森林調査である。

2008年3月16日(日)晴れ
静岡の森林調査<最終日-水ぬるむ天竜川>

 午前8時20分、「かじか荘」のご主人、女将さん、そしておばあちゃんにも見送られて宿を発った。そして大千瀬川沿いを走って浦川の町に入り、昨日持ち越しの第15調査地点に向けて地八川上流部から和山間峠に向かう林道に車を乗り入れた。しばらくして「ちょっとヤバイなあ・・・」とSさんが車を停めた。ニッサンDUALISのメーターに何やら警告ランプが点灯しているのである。Sさんはダッシュボードから車の説明書を取り出しページをめくる。そして「エンジン系のトラブルのようですねえ。ここは携帯通じるかなあ?」とレンタカー会社に電話をかけた。随分長いやりとりがあってSさんは「ふ〜ッ!」と溜め息をついてから「今日の調査は中止しましょう。これから一番近い浜松ニッサンの店に寄って車を見てもらいます」と言った。何やら気勢を削がれた気分で「そうですか〜」とだけ応えざるを得なかった。
 国道152号線を天竜川に沿って下り、「ふるさと村」のある龍山町の「森林文化会館」の駐車場に車を停めた。ここで8日間使った装備や調査用具などのチェックとコンテナボックスへの収納である。「ヘルメット2個」「はい」、「オレンジベスト2枚」「はい」、「熊鈴1個」「はい」・・・とチェックが終わってSさんがコンテナーボックスに収納を始めた。その間私は対岸の杉山の影を川面に写した天竜川を眺めていた。まるで湖のような静かさで、一杯の春の日差しに温まったような水が柔らかく緑色に光っていた。水面をウグイスの鳴き声が渡って来た。川べりの桜の木も蕾が大きく膨らんでいる。もうここ北遠の地はすっかり春である。
 JR浜松駅近くのニッサンレンタカーでSさんと別れ新幹線に乗り込んだ。そして列車の窓から河原がぐんと拡がった天竜川と大井川を何やら懐かしく目に留めて藤沢の自宅に戻った。

2008年3月17日(月)曇り
静岡の森林調査(帰還)

 昨日無事(自分で言うのも何だけど)静岡の森林調査から帰ってきた。今度も山梨でご一緒したSさんとのペアだったが、彼の予告通り厳しい調査の連続だった。調査地点は静岡県榛原郡川根本町(大井川上流部の寸又峡近く)の2箇所と、合併して浜松市となったダムで有名な佐久間町(天竜川の上流及び支流域)12箇所の合計14箇所だった。この中で現地に行き着いても余りの厳しい地形で調査不能地点が2箇所あった。

 静岡というとお茶とミカンと鰻と干物だという何やら穏やかな甘い認識しか持っていなかったが、ズバリ遠州の地は植林王国である。今回走り回った北遠の地などは全山スギだらけで、花粉症の人などは天竜川沿いのこの風景を一瞥しただけで目はグチョグチョ、鼻水ジョロジョロで卒倒間違いなしである。
 調査地点の標高はせいぜい550mから1000m未満だったが、何しろ標高150mほどの天竜川からまるで壁のように競り上がった急峻な山肌である。そして斜面は尖った岩混じりのガレ場で植林地を歩くとガラガラと崩れ落ちる場所が大半だった。
 しかしこんな山肌に集落がへばり付いていた。遠くからこれらの集落を望むと、スギに覆われた巨大な緑の壁にぽっかり小さな窓を開けたようにも見える。石を積み上げながら僅かな平地を作りそして年月をかけて建てたであろう家には、玄関にシデを垂らして戸締りしたままの空家も多かった。こんな石壁の上で仲良く日向ぼっこをしていた二人組の1人の老婆が言った。「ウチの爺さんも昨年出ていったきりでもう一年にもなるのに、どこで寝転んでいるやら・・・」その陽気な語り口を呆然と見詰めながら痛ましい山間地の現実を知らされるのである。
 宿は3箇所を渡り歩いたが、その宿のご主人たちの話も面白かった。そして林業の昔と今を考えてみる貴重な8日間でもあった。

2008年3月31日(月)雨
チベット騒乱

 朝、二日酔の頭を抱えて起きると、庭が濡れてシトシトと雨が降っていた。ちょっと救われた気分である。例えば二日酔の朝にキラキラの朝日を浴びてしまった場合など、それだけで何やら凄い圧力を感じてへなへなと身体が再び崩れそうになってしまう。二日酔の朝ほど人間の抵抗力がすっかり無くなっている時はないと私は思っている。
 しかし昨夜は楽しかった。午後2時から全国森林インストラクター神奈川会の総会が平塚博物館で開かれ、その後の懇親会で久々に会ったメンバーの人たちと実に楽しい時間を過ごすことができた。小生を除きメンバーは多士済々で、「草」「木」「鳥」「虫」・・・
(そしてお酒)とおよそ自然に関する博覧強記ぶりは日頃起居を共にしているパートナーの細部よりは更によく知り尽くしているという面々である。
 さて、時事通信が伝えるところによるとチベット自治区のラサで3月29日再び大規模なデモが起きた。まだこの日の死者の数などは発表されてないが、ラサには3月14日の中国政府に対する最初の抗議行動以来、戦車や兵士が多数動員されて厳重な警戒下にある。14日の騒乱では中国当局が発表した10名の死亡に対し、チベット亡命政府は「死亡者の確認は約30人、しかし100人を超えるとも聞いている」と発表した。そして今回、更にこれ以上の悲惨な結果にならないかと心配している。

 私がチベット自治区ラサを訪れたのは昨年の8月7日、8日である。(2007年8月日記「チベット旅行」に記載)その時目にしたチベットの人たちの敬虔な祈りの姿やひたむきな五体投地に強い衝撃と感動を覚えたことを昨日のように記憶しているが、そのジョカン(大昭寺)やバルコル(八角街:ジョカン寺を回る巡礼の道)で今騒乱が起きていると思うと、胸が潰れる思いである。
 たまたまこの時、「オンマニファニホン・・・」と経を唱えながらマニ車を回しながら巡礼する人や、バルコルの石畳に五体投地をして祈り続ける僧侶がいるバルコルの中に、ピカピカの4台の車が警笛で人々を蹴散らすようにして入って来た。先頭と最後尾の車が「公安」と書かれた中国警察の車(トヨタのランドクルーザーだった)、そして2台目と3台目が中国政府のVIPが乗った車(三菱パジェロだった)である。バルコルはまさに巡礼の道で自動車は勿論、手押し車や荷馬車でさえ立ち入れない場所だと聞いていた。その神聖な場所に北京の高官が車で乗り入れて来るとは・・・!と観光客の我々でさえ腹立たしく思った。
 中国政府は今北京オリンピックを控え(あるいはこれを好材料として)中国が抱える他民族への漢化、北京化を強力に推し進めようとしているように見える。それが厖大な歴史的長さの中で育まれてきた民族の宗教や伝統文化、人間の尊厳を踏みにじる結果に繋がっているのだと思っている。(後日「森のパンセ」に<チベット-愛すべき祈りの民>をアップします)